モネ 睡蓮 その4 僕だけの場所

f:id:haruprimavera:20200621171236j:plain



その日から僕は毎日庭に出て、たくさんのものを描いた。それはどこまでも広がる果てしない空であり、大地に息づく草木であり、庭に遊びに来る愛くるしい小動物たちだった。そして、僕が一番たくさん描いたのは、もちろん大好きなばあばだった。
ばあばがバルコニーの椅子に腰をかけて遠くを見つめていたり、書斎で本を読んでいるところだったり、キッチンで料理を作っているところだったりを描いた。僕の描いた絵を見せると、ばあばはいつも嬉しそうに笑い、そしてたくさん褒めてくれた。まるで僕の絵から、新しく新鮮な空気でも吸ってるみたいに、そのときのばあばはとっても生き生きしてみえた。
僕の一番お気に入りのばあばは、あの秘密の裏庭の橋の植えて、僕を真っ直ぐに見つめてくれたときの表情だった。あの、宇宙の広がりみたいな真っ直ぐな黒い目とか、珍しく真剣にきゅっと結ばれた口元とか、いつも優しいばあばのまゆがスッとなって凛々しささえ感じたところとかを思い出して描くのが好きだった。
そしていつしか僕の、僕らの「いつもの場所」があの睡蓮の橋の上だった。僕らは何をするでもなくその橋の上から、たくさんの睡蓮たちと、池の反射する光と、優しくしげる緑と、そして庭の暖かな雰囲気を満喫した。そこを吹く風は、いつだって穏やかで、心地よかった。
「睡蓮の花はね」
あるときばあばが言った。僕らが橋の上に座って、サイダー味のアイスキャンディーを食べていたときだ。
「お日様と一緒に起きて、そして眠るのよ」
僕はやっぱりちょっとばあばの言うことが分からなくて、首を傾げた。アイスの滴が、手にぽたっと垂れる。
「朝になると花を咲かせるけど、夜になると、萎んでしまうの。ほら、ソラも学校の夏休みの課題か何かで、朝顔の観察とか、やらなかった?ある種の花はね、ずーっと咲いているわけじゃないのよ。あるふさわしい時期がきたら花開いて、そして、萎んでしまうの」
「なんだか、悲しいね」
僕は思わず、呟いた。
「そうかしら?」
今度は、ばあばが首を傾げた。
「夜眠るのはね、睡蓮が次の日、また美しく咲くために準備しているのよ。夜はね、おやすみの時間なの。ソラも夜になったら眠るでしょう?ずっと起きっぱなしじゃ、疲れちゃうものね」
そう言うとばあばは僕の手を優しく握った。
「だからね、例え真っ暗で、太陽がもう一生昇らないんだって思っても、必ず朝はくるし、花はまた開くのよ。朝と同じくらい、夜はとっても大切なの。よく、覚えておいてね」
そう言ってばあばはアイスキャンディをペロリとなめた。ばあばの真っ白な髪の毛が、日の光に照らされてなんだかとってもきれいに見えた。

僕は朝から憂鬱だった。そんな僕の気持ちを映し出したみたいに、空模様も、曇っていた。せっかく今日はばあばの家にいる最後の1日なのに。明日になれば、お父さんとお母さんが迎えに来てしまうのに。
僕は、戻りたくなんてなかった。ずっとここで、ばあばと一緒にいたかった。ここで、この秘密の庭で、絵を書いたり、馬に乗ったり、散歩したり、ばあばにもっといろんな魔法や、世界の秘密について教えてもらいたかった。もうあんな学校になんて戻りたくなかったし、お父さんとお母さんにもなんだか会いたくなかった。僕はここにいる間、一回だってあの二人を恋しいと思ったことなんてなかった。
思い足取りで階段を降りる。バルコニーを見るとばあばの姿はなかった。ただ空が分厚い鉛色の雲に覆われて、たまにびゅうっと強い風が吹いていた。寒くはないはずなのに僕は一瞬体を震わせた。
「起きたのかい、ソラ。今日はお天気が悪いから、食堂で、ご飯を食べようね」
ばあばがパジャマ姿にガウンを引っ掛けて現れた。僕は黙ってうなずく。
朝食を食べている間も、言葉は少なかった。僕の気持ちに気づいているであろうばあばは、それでも何も言わずに紅茶をすすった。
今日は風が強いので、外には出られそうになかった。代わりに僕らは居間に行って、お手伝いさんたちも集めてトランプをしたり、ボードゲームをしたりした。ここに来て僕はばあばから、チェスやタロット占いなんかを教わった。まだ慣れてなくて、全然ばあばにはかないっこないけど、運じゃなくて、頭を使うゲームの方がずっと好きだ。自分の努力次第で勝つことができる。
午後には書斎で本を読んだ。魔女ばあばの家に来てから、僕はたくさんの本とも友達になった。僕のお気にいりは「トムソーヤの冒険」だ。読んでいてドキドキワクワクするし、裸足で自然の中を駆けずり回るトムソーヤは僕の憧れだ。勇気があって、物怖じしないし、それにとっても頭がいい。学校の成績はイマイチだけど、みんながあっと驚くようなことをやってのける。今度また、ばあばのお家へ来たら、僕を庭を裸足で駆け回って、木登りにも挑戦したい。
「せっかくの最後の日なのに、お外に出られなくて、残念ねえ」
ばあばが肩を落としながら、窓から外を見る、午後になって風が一層強まり、雨も降り出してきてしまった。僕は雨は嫌いじゃないけど、雷が怖い。あのピカって突然光って、その後に地獄から響いてきたみたいな唸り声を聞くと縮こまってしまう。
僕はたまらなくなって。ソファーから立ち上がり、ばあばの座っている二人がけのソファまでいくと、ばあばに抱きついた。
「どうしたの?」
ばあばが落ち着いた声で聞いて、僕の頭を撫でる。僕はいよいよ我慢できなくなり、ばあばを見上げながら、今日一日ずっと聞いてみたかったことを聞いた。
「僕、明日帰りたくないよ。ずっとばあばといたいんだ。お願い、僕、このままずっと、ここにいていい?」
僕は心のどこかで、ばあばが快く承諾してくるものと思っていた。ばあばはいつだって僕のお願いを聞いてくれたし、ばあばはとっても優しいのだ。きっと僕のことを可哀想に思って、ここにおいてくれるに違いない。
「ソラ、それはだめよ」
珍しく口調の強いばあばに、僕はそれこそ雷に打たれたみたいな衝撃を感じ、はっと顔をあげた。
「ソラ、ソラはここでばあばとたくさん、いろんなことをしたでしょう。いろんなことを話したでしょう。だから今度は、お父さんや、お母さんや、それから学校のお友達たちと、いろんなことを話さなきゃ。ソラはね、これからもっともっと勉強して、たくさんたくさん絵を書いて、好きなことをして、心を注げるものに出会って、そしてばあばのお家やお庭なんかよりずっとずっと広い世界を見るのよ。もちろんばあばのところにもたまに、遊びに来ていいわ。例えば、こんな夏休みとかね。でもね、ソラはずっとここにはいられないのよ」
なんだか裏切られた気分だった。ばあばがそんなこと言うなんて、思ってもみなかった。ばあばは変わらずに僕の頭を撫でてくれているのに、顔はいつもより険しくなっていた。僕を叱っているみたいだった。僕は急に怖くなり、そんなばあばの顔を見続けることはできなかった。
「もういいよ!ばあばなんて嫌い!」
僕はそれだけ言うと逃げるように階段を駆け上がり、自分の部屋の戸をバタン!と閉めた。そしてベットに飛び込んで、泣いた。
なんだか僕は、本当に、世界に、ひとりぼっちな気分だった。
誰も知らない宇宙の果てに放り出された気分だった。それでも明日帰らなければいけないと言う現実の恐怖が僕の心をギュッと締め付けた。もう何もかも忘れて消えてしまいたかった。僕はいくら頑張ったって、トムソーヤにはなれなかった。

そのまま眠ってしまったみたいだった。気づくと部屋の中は真っ暗だった。ただごうごうと唸る風の音と、ガラスに打ち付ける雨の音が、部屋の中に響いていた。僕はゆっくりと起き上がって目を擦る。窓越しに見る外の景色は、叩きつける雨のせいでよく見えない。日もとっくに暮れてしまったみたいだった。時計を見ると夜の7時だ。
お腹が空いたので下に行くと、食堂に一人分のカレーが用意されていた。僕がばあばのお家に初めて来たときの夜にも出た、ばあばの手作りカレーだった。僕の大好物。あんなにひどいことを言ったのに、ばあばはちゃんと僕の分のご飯を作ってくれているのだ。
カレーの匂いにお腹を刺激され、僕は悲しさと虚しさを抱えたまま椅子に座り、カレーを頬張った。風と雨の音と一緒に、スプーンが食器を打ち付けるかちゃかちゃと言う音が混じった。
あんなに大好きなカレーのはずなのに、僕は半分も食べれなかった。味は、一ヶ月前と同じはずなのに、なんだかとても空っぽな味しかしなかった。僕はスプーンをおき、そのまま自分の部屋に引き返した。
「ソラ」
自分の部屋のドアに手をかけたとき、ばあばが僕を呼び止めた。
僕はどんな顔をしていいのかわからないまま声のした方を向いた。
ばあばの部屋のドアが開かれていて、ベットの先が見えた。すると、ばあばの手だけがドアの端からにょきっと出てきて、僕を手招きした。
僕はゆっくり、ばあばの部屋にはいった。
ばあばはパジャマに着替えて、大きなベットに一人ちょこん、と座っていた。こうしてみると小柄なばあばは、なんだか子供みたいに見えた。
そういえば一ヶ月間、この家にいたけどばあばの部屋に入るのは初めてだった。大きなベットを中心に、部屋には2、3まいの絵が飾ってあった。小さな机が部屋の隅にあり、その手前に鏡があった。ちょうどベットの近くにはランプがあり、それが柔らかい光を放っている。僕はいつか学校の理科の授業でみたホタルを思い出した。
「こっちにおいで」
僕はばあばの枕元にいき、そのまま二人して無言でベットの中に入った。ベットはばあばの匂いがした。
「夜ご飯、ちゃんと食べたかい?」
「うん、食べたよ。ありがとう。ばあばのカレーはいつも美味しいね。」
半分しか食べれ無かったのは黙っておいた。なんとなく、お母さんみたいに、ばあばも傷ついてしまうんじゃないかと思ったからだ。
「ね、ソラ。あれをみてごらん」
そう言ってばあばが、ベットから一番近くにある絵を指差した。僕はそれがなんの絵だがすぐにわかった。
「僕らの魔法のお庭だね」
「そうよ。これはあの画家さんの描いた絵。睡蓮はね、ギリシア神話っていう古いお話の中で「ウォーターニンフ」と呼ばれていて、日本語で「水の精」と言う名前がついているのよ。だからあの池にはいつも、妖精さんたちがいるのよ。ほら、夜になると花が萎んでしまうって、話したでしょう?きっと夜にはその花が、妖精の本当の姿を取り戻すのね」
それから魔女ばあばは、ふふっと笑って先を続けた。
「それからね、この橋の上で、あなたのじいじがばあばに、結婚してくれませんか、って言ってくれた場所でもあるの」
そう言って本当に、心底愛おしそうに、またふふっと笑った。その響きがとても好きだった。
「だからね、ソラ、本当に辛いときがあったら、あの池に行を思い出しなさい。あなたの心の中に、あの秘密の庭を作りなさい。そこはいつだってあなただけの場所で、誰も立ち入ることができないの。もし誰かがあなたをいじめても、あの場所と、それからばあばだけは、ずっとずっとあなたの味方だから」
ばあばは、僕がいじめを告白したときみたいに、僕の背中を摩ってくれた。
「ばあば」
僕はまた、ばあばの胸に飛び込んで、そして泣いた。自分の中の不安を、恐怖を、怒りを、自分のちっぽけさを、優しい優しいばあばにぶつけた。
「大丈夫、大丈夫よ。ソラ、あなたなら大丈夫」
ばあばはいつまでも、いつまででも僕の背中を摩ってくれていた。

僕は目が覚めたとき、まだ、夢の中にいるんだと思っていた。僕は悪夢を見ていているんだと思った。だから早く、覚めろ、覚めろと思って、目をギュッとつぶって、耳を塞いだ。真っ暗な中で、何か、大きくて怖い動物の唸り声を聞いたからだ。
でもいつまで経っても目の前の景色はぼやけなかったし、音が遠のきもしなかった。そこで恐る恐る周囲を見渡した。手探りであたりを探った。
すぐに何かに触れた。それは暖かい人の肌の温もりだった。でもその体はぶるぶると震えていて、汗でじっとりと湿っていた。
僕は嫌な予感がし、急いで枕元のランプを探って明かりをつけた。
ばあばだった。
ばあばが、体を折り曲げて、汗を流しながら唸っていた。
「ばあば!ばあば!どうしたの?どこか痛いの?ねえ、ばあば!」
僕はそっと、でも急いでばあばの体を叩いてみた。それでもばあばは返事をしなかった。ただ、ずっと、今まで聞いたことのないような苦しい声で唸っているだけだった。
「ねえばあば、どうしたのさ。ねえってば、何があったの?お医者さん行く?」
僕はますますパニックになった。どうしていいのかわからなかった。人を呼びに行こうと思い立ってベッドを出たけど、壁にかけてある時計が午前2時を指していた。昼間いたお手伝いさんは、一人残らず帰ってしまっていた。僕は反射的に救急車を呼ぼうとして電話を探した。だがどこにも見当たらない。
確かばあばは電話が嫌いで、ケータイ電話すら、持っていないことを思い出した。それでも、僕や僕のお母さんは時々ばあばと電話で話していたから、少なくとも一つは、この家のどこかにあるはずだった。
僕は必死にこの一ヶ月を思い出した。いつか、どこかで、ばあばは電話を使っていなかったか?
しかし、気が動転しているせいか、それとも本当に電話を使う場面がなかったのか、とにかく僕はばあばが電話を使っている姿を思い出せなかった。
僕は自分の部屋に駆け込んで、リュックの中をひっくり返してスマートフォンを見つけ出した。でも、圏外だった。
半ベソをかきながらばあばの部屋に戻る。ばあばはさっきと同じ姿勢で、唸っていた。
僕は反対側に回って、ばあばの顔を覗き込んだ。僕はいつも穏やかそうに笑っているばあばが、目をギュッとつぶり、歯をむき出しにしている姿は、なんだかまるで、ばあばが、悪い魔女に乗っ取られてしまったみたいだった。僕の知っているばあばは、どこか遠くに行ってしまったみたいだった。
僕は階段を転げるように降りた。そして下の階をくまなく、しかし素早く見て回った。居間や食堂や、書斎や玄関ホール。しかしどこにも電話の姿はなかった。
そのとき僕の目は、はっと何かを捉えた。視界の隅で、何かが光ったのだ。僕は目を凝らしてその緑の光の先を追った。
僕らの秘密の庭だ。あれが光っているのだ。
もう考える余裕なんてなかった。僕は突進するように窓を突き抜けた。けたたましい音とともに風と雨が僕の体を叩きつける。雨の滴が風に流されて額を濡らしていく。風の轟音が耳を殴りつけた。そのまま階段を使うのももどかしく手すりからジャンプし、そのまま庭に着地した。湿った草が僕の足の裏を濡らす。
その時一瞬、僕の視界が真っ白に染まった。そして次の瞬間、まるで大きな怪物の唸り声みたいな音が、僕の耳をつんざいた。なんなのかすぐに分かった。雷が落ちたのだ。
僕の体は全く動かなくなってしまった。自分の心臓の音がやけに大きく聞こえ、根が生えたみたいに足が地面から離れなかった。雨が僕の視界を奪い、パジャマを濡らした。髪が顔に張り付くも、それすら拭うことができない。
はっはっはっ
そこは完全な暗闇だった。自分の呼吸する音だけがやけに大きく聞こえる。僕は思わず引き返したくなったけど、必死にそれを考えるのをやめた。だって一回でもそれを考えてしまったら、この動かなかったはずの足は、まるでウサギみたいに素早く、家の中に向かって飛んでいくのが分かっていたからだ。
でも、僕は進まなくちゃならない。あの秘密の庭に行かなくちゃいけない。ほら、もう、すぐそこだ。
僕は泣きながら暗闇の中に立ち尽くした。もう涙だか雨だかわからない滴が僕の顔と、そして体全体を濡らした。
もうダメだ、と思った。もう、限界だ。こんな真っ暗で、煩くて、地獄みたいな中に一人で立っているなんて。
だけどその時、僕の中の何かが、激しく叫んでいた。僕の心が、あの庭を、どうしても求めているのだ。僕は行かなくてはならなかった。例え雷が落ちようがひょうが降ろうが、槍が降ろうが僕はそこにたどり着かなくてはならなかった。
ばあばのために、そして、僕自身のために。
まるで呪いが溶けたみたいに、一歩、足が前に出た。深呼吸して、もう一歩、踏み出す。さらにもう一歩、そして、その先へ。
気づけば走り出していた。そのまま一目散に裏に回る。そしてカーテンのように垂れている木々の枝を手でがむしゃらに退けて、「秘密の庭」に入った。
入ってみて、僕はその奇妙さに、一瞬、思考が停止した。
風の音が、雨が、ピタリと止んだのだ。僕はただ。息を弾ませ、身体中から滴を滴らせて橋の上に立っていた。空からは大きな満月がちょうど木の隙間から、太陽の代わりその光を池に注いでいた。空には雲ひとつなく、ただ黄金色の月と、人魚の涙を集めたような星たちが漆黒の空一面に散りばめられていた。池は大きな鏡みたいに天空の景色を写していた。
あれほどまでに僕を叩きつけていた雨も、鼓膜を震わせていた風も、そして地獄の底から叫ぶ雷も、まるでそんなもの、この世界には存在しないようにピタリと、鎮まったのだ。
まるでこの庭だけが、世界の事実や、ことわりとは一線を隠しているみたいに。
すると池ずっと向こうのほうに、虫の大群のような、僕がいつも使う、筆の柔らかなタッチのような小さな何かが塊を作り出した。それは橋の上から見るとたくさんの、緑色の集まった点々みたいなものだった。しばらく動いていたが、それがようやく人の形をしていることがわかった。
その人はまるで僕を吟味するみたいに、真っ直ぐに僕を見つめていた。もちろんそれはシルエットだけなので、目や口や、髪の毛なんかはなかったけど、僕にはその人にみられていることがちゃんとわかっていた。だって僕は、ずっと昔、まだ僕が小さかった頃、その眼差しが、いつも僕を見つめてくれていたのを、心はちゃんと覚えていたからだ。
「助けて」
僕は考える前に、口にした、もう、藁にもすがる思いだった。
「ばあばが、僕の魔女ばあばが苦しんでるの。助けてあげたいのに、どうすればいいのかわからないの」
僕の目から、まるでさっきの雨みたいに涙が溢れてきた。僕はなんとしても魔女ばあばを助けたかった。誰にもわかってもらえないときに、いつも話を聞いてくれたのはばあばだった。誰かに変われと言われたときに、我慢して、強くならなくちゃと思ったときに、僕は僕のままでいいと教えてくれたのはばあばだった。世界の秘密を分かち合われてくれてたのはばあばだった。僕の絵を好きだと言ってくれたのはばあばだった。自分がひどくちっぽけだと思ったときに、僕自身に価値があると気づかせてくれたのは、ばあばだった。僕が甘えて、弱くなってしまったときに、僕が僕自身さえ信じる力をなくしたときに、僕ならできると励ましてくれたのはばあばだった。
いつだって、魔女ばあばが、とても大切なことを教えてくれた、。
僕を、心の底から愛してくれた。
「ばあばはいつだって、僕を助けてくれた。僕もばあばを助けたい!」
僕はその人に向かって叫んだ。穏やかな緑色の粒に向かって叫んだ。
するとその人はゆっくりと、滑るように池のうえを移動して、僕の目の前にきた。水には波紋すら落とさなかった。
そしてそのままその人は、柔らかな、でもとても強い光で輝き出した。まるで月光を一身に宿しているみたいに。僕は目が開けられなくなって、思わず手で顔を覆った。
手の隙間から光がもれ、僕の手を赤く照らす。光が庭全体を大きく包み込んだ。
だんだんとその光が弱くなり、最後には僕のてのなかに消えた。ずっと握り締めていた、僕の左手に。
そっと開けてみると、そこには、夜は開かないはずの睡蓮の花が握られていた。なんだか不思議な気分だった。まるで、世界の全てと、いっぺんに触れ合ったみたいだった。体が、とても暖かかった。そして僕はどういうわけか、まだ涙を流していた。言葉にならない感情が、頬を伝って流れ落ちるのを心地よく感じていた。
それから急いで部屋に戻り、ばあばの顔の近くにその花をそっと、持っていった。
まるで赤ちゃんのほっぺたみたいな淡いピンク色の花はばあばの口もとで、だんだんぼやけて、さっきのシルエットの形のような、ぼやけた
タッチになった。たくさんの色が混じり合ったそれは、そのまままるで何かに導かれるみたいにばあばの口の中に吸い込まれていった。
ばあばが大きく、ひとつ、ため息をついた。まるで何十年も前からため込んでたような、深い、深い、安心したため息だった。

僕は玄関の階段に座って、僕のお父さんとお母さんを待っていた。両隣にはこの一ヶ月の間の僕の絵の数々や着替えが終われたリュックと小ぶりなキャリーケースが並んでいる。リュックの中には車の中で食べるようにと、朝大急ぎでばあばの作ってくれたクッキーが入っている。
昨日の嵐が嘘だったかのように、空はカラッと晴れ渡り、深い青に染まっていた。「嵐の後は、いつだっていい天気になるのよ」ばあばが僕にウインクして教えてくれた、
ばあばも、そして昨日の出来事も全部夢だったのではないかというように、すっかり元気になっていた。昨日のことは聞いたけど覚えていないみたいだった。でも、とぼけているのか本当に覚えていないのか、僕にはわからなかった。やっぱりばあばは、僕の魔女ばあばだ。
僕は自分の家に帰る前に、もう一度あの、秘密の庭をみておこうと思ったけれど、不思議なことに、あの庭はなくなっていた。どうにも信じられなくて、家の周りを何周もして探したんだけと、ついにあの場所を見つけることができなかった。なんだか狐につままれたような気分になった。ばあばは僕がいくら問いただしても、ニコニコしているだけで何も答えてはくれなかった。昨日の晩みた絵も、いつの間にか忽然となくなっていた。まるでそんな場所、最初から存在しなかったみたいに。
それでも僕は、驚きはしたけど、ガッカリはしていなかった。だって僕の心の中に、いつだってそれはあるからだ。僕はいつだって好きなときにそこをまた訪れることができる。そこは僕だけの場所で、僕の世界だからだ。

こうしてこの僕の不思議な経験と、秘密の庭についての物語は終わる。そしてこの絵は僕の幼少期の記憶を頼りに大人になってキャンパスに表現したものだ。細かいところはもう忘れてしまったけれど、あの庭のもつ不思議さや、温かみは表現できていると思う。
そして僕はこの絵をみるたびにいつだって思い出す。世界の秘密と、そしてとってもおちゃめで優しい魔女を。