モネ 睡蓮 その3 僕の秘密と世界の秘密

 

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こうして僕と魔女ばあばの夏休みが始まった。僕らは朝になると一緒にバルコニーで朝食を食べた。朝食はその日のお手伝いさんのお任せで、パンだったりスコーンだったり、オムレツだったり、目玉焼きだったり、パンケーキだったり、フレンチトーストだったりした。そこに添えられるのはフレッシュで美味しいジャムとミルク。そして食後の甘いカフェオレ。なんだか外国の映画みたいだな、と思う。
魔女ばあばのおうちはすごいお金持ちだ。詳しいことはよくわからないけど、もう亡くなってしまった魔女ばあばの旦那さん、つまり僕のじいじのおうちが貿易商か何かの歴史ある古い家系で、じいじがそれを更に大きくさせたらしい。でも僕はその人に会ったことがない。いや、会ったことはあるんだろうけど、僕がやっぱりとっても小さい時に、じいじは癌で亡くなってしまったから、僕の記憶には残っていないのだ。いつも写真で見るだけ。
まだ赤ちゃんで、揃いタオルに包まれた僕を、少し恥ずかしそうな、それでも嬉しそうに抱いてくれている写真や、買ってもらった新しい三輪車を乗り回しているのを微笑ましそうに見つめている写真なんかを何度か見た事がある。少し怖そうだけど(多分眉間にいつもシワができているせいだと思うけど)、穏やかで、優しそうな人だな、と思った。でも、この人があなたのおじいさんよ、と言われてもあんまりピンと来なくて、なんだか不思議な感じだ。
「あなたは覚えていないかもしれないけど、じいじはね、あなたのこと、ものすごーく大好きだったのよ。とっても可愛がってくれたのよ」
それでも僕は、ばあばがじいじのことを話すのを聞くのが好きだ。じいじの話をするときのばあばは、いつもより一層、穏やかで優しい声を出すし、まるで自分だけの宝物や、秘密を、こっそりと僕にだけ教えてくれているみたな感じがする。声が少し弾んで、頬の一番出っ張ったところが、薔薇みたいにパッと色ずく。
「ばあばは、遠くに行っちゃっても、じいじのこと、ずーっと好きなんだね」
僕が食後のカフェラテを飲みながらそう尋ねると、ばあばは嬉しそうに、一層弾んだ声で答えた。
「そりゃ、そうよ。だってばあばは魔女で、じいじは私の魔法使いなんですもの。あの人はね、私の人生に光と、そして彩を与えてくれたのよ。」
そして一層、声を低くして、僕の耳元でそっと囁いた。それは僕の知らなかった、もう一つの、世界の秘密だった。
「この世で一番の魔法はね、愛なのよ」
僕はこのばあばの笑顔が、世界で一番好きだ。

朝食の後、僕たちは乗馬をしたり、何をするでもなく庭を散歩したり、(それでも、ばあばはあんまり沢山は歩けないから休憩時間の方が歩いている時間より、ずっと多かった気がする)時には木のしたの小さな木陰でお弁当を食べることもあった。ばあばは、僕の知らない花の名前や花言葉、虫や鳥の名前を沢山教えてくれた。
「この真っ赤なお花はね、「恋煩い草」っていうのよ。ある女の子がね、好きな男の子のことを考えて考えて考えすぎちゃって、ある日突然、真っ赤な花に変わってしまったの!顔を真っ赤に赤らめたみたいな色をしてるでしょう?それにこの花の花弁が、可愛らしい女の子のスカートみたいね」
「この黒い実はね、いい?絶対に食べちゃダメよ。これは「爆弾ボンバ」っていう実でね、食べてしまうと、体の中で爆発して、お腹を壊してしまいますからね。でも、もし、ソラをいじめるわるーい奴らがいたら、こっそりばあばに教えて?ばあばがその子たちの給食のスープに、こっそりこれを入れてやるからね」
「この真っ白い、空みたいな小鳥はね、「雨知らせ鳥」と言ってね、雨が降りそうになると、いつも三回続けて泣くのよ。さあ、耳をすまして・・・今日は、ずーっとお天気ね」
「こっちのに咲いている黄色い葉っぱや草たちはね、「魔法の絨毯」よ。ずーっと昔、じいじがね、この絨毯に私を乗せて、一緒にお空を飛んだのよ」
「でも、魔法使いはほうきに乗って空を飛ぶんじゃないの?」
「ばあばとじいじはね、とてもハイカラな、オシャレさんな魔法使いと魔女だったのよ」
ばあばは僕にウインクした。

いつものように一通り散歩をした後、二人で、またテラスで昼ごはんを食べた。そして何をするでもなく、パラソルの下から強烈な生命の発する音と、色と、匂いを堪能していた。
「ソラ、あなたそういえば絵が好きだったじゃない?覚えてない?ちっちゃい時なんて何色もあるクレヨンを一日中握り締めて絵を書いていたじゃない。覚えてない?ばあばね、今でもソラがくれた絵をちゃんととってあるのよ」
ばあばの声に、不自然なところや、強制的なところはなかった。それでも、僕はその言葉を聞いた瞬間、昼間に食べたミートパイが胃の底から迫り上がってくるのを感じた。
「もう、描かないよ」
なんとか唾を飲み込み、やり過ごす。なんとなくめまいがしてきた。
「あら、どうして」
ばあばが本当に不思議そうに聞いた。お母さんから聞いていないのだろうか。僕がなぜ、夏休み中ここにいるのかということや、僕の絵のことや、学校のこと。
「そ、そんな、女っぽいこと、もうやめたんだ。だって変だもん」
自分に一語一句言い聞かせるように吐き出した。汗が吹き出る。テーブルの上にあったレモネードをひったくるように掴むと、ストローからではなく直接口をつけてそれを啜った。透明なガラスの玉が、コップの中でカラカラと音を立てる。
僕の世界が回り始めた。音が小さくなったり、大きくなったりした。汗が止まらなくなり、視界が揺れた。暑さも寒さも感じられなくなり、口の中が乾いた。心臓がどくどくと僕を責めるみたいに、重く鼓動した。胃の中の食べ物が迫り上がってくる。何かにすがりたかった。一つの何かにしがみついて、このグルグルと回る世界から、僕が振り落とされないようにしたかった。
その時何かが僕の背に触れた。そこから何かが伝わってくる。目の前にはばあばの顔があった。視界がぼやける。僕は泣いていた。両目から、ボロボロと、雨が降るみたいに涙が落ちてきた。すると何も聞こえなくなった僕の耳に、唯一、暗闇に挿す光みたいに聞こえていきた。
「ねえ、魔女ばあばに話してくれる?」
僕の大好きなばあばの声だった。

ばあばのいうとおり、僕は絵を描くのが大好きだった。目に映る輝かしい光景を、真っ白な紙やキャンパスに表現するのがとても好きだった。まるで僕が、僕だけの新しい世界を作り上げているみたいだった。想像力を生かし、世界を見、そこに息づく人や物を自分の世界にトレースし、そこで自分の好きなように表現できるのが何より嬉しかった。
最初のうちはみんな何も言わなかったと思う。例えば幼稚園、小学校1、2年生の時。それでもだんだん学年が上がるに連れて、僕が他の男の子たちと同じように、サッカーやバスケットボールに全く興味を示さないで、いつも休み時間になると校庭の角のほうで一人で絵を描いている姿はだんだん周りから浮いて見えた。中にはうまい、上手だと褒めてくれたクラスの女子もいたけれど、4年生に上がる頃には誰も僕に話しかけなくなっていた。
そしてある日、特別がたいの大きい、サッカークラブにかよっているリーダータイプの男の子が、僕に目をつけた。
特にその子に目をつけられることをしたとか、その子が特別僕に恨みを持っていたとかではないと思う。こういうことは、何か特別な理由だとか、大きな出来事によって起こるわけではない。ただ、何かの拍子に「こいつ、男のくせにいつも女みたいに絵ばっかり描いてて、気持ちわる」とクラスの前で言い放った。
それがいじめの引き金になった。中心的にいじめていたのはサッカークラブの連中だけど、他のみんなも、そのグループからの仕返しを恐れて、誰も何もしてくれなかった。僕も、自営業を営む両親の負担になってはいけないと、いじめがバレないように何かと嘘をついてはぐらかした。
それでもある日、給食の時間に食べ物をもどしてしまった。それは僕や周りの生徒の鼻をつん、とつき、ゲロの一部が女の子のスカートに飛んでしまったことでその子が泣いてしまった。リーダー格の男の子はこれみよがしに、謝れ、と僕の頭をその吐瀉物のなかに突っ込んだ。
そこで、糸が、切れたのだ。
担任が止めに入るのも効かずに僕は死に物狂いで彼に飛びかかった。彼はいつものように、やられたらやられっぱなしの僕が、まさか掴みかかってくるとは思わなかったのか、そのまま僕の勢いを支え切れずに、スッテーンと床に倒れ込んだ。そのまま僕は馬乗りになり、支離滅裂なことを喚き散らしながらその子の顔を何度も何度も殴った。他のクラスからも男の先生が女子と僕の叫び声を聞いて飛んできて、三人がかりで僕を彼から引き剥がしたらしい。
らしいというのは、その時のことを僕は全く覚えていないのだ。後から両親が学校に呼び出され、そこで担任の先生から説明を受けた。リーダー格の男の子は歯を何本か折ったようだった。僕がその時唯一、しかし強烈に覚えていたのは、明確な殺意と、拳の痛みだけだった。
詳しいことはまた後日ということになり、僕らは家に帰った。僕はそこで隠していたいじめの事実を両親に打ち明けた。もちろん両親は学校と相手の子に激怒し、僕のことを慰めたり、励ましたりしてくれた。お母さんは涙を流し、お父さんはそれをなんとかこられていた。
それでも僕は、そっとしておいて欲しかった。誰にも触れられず、見られず、聞かれず、僕は世間から隠されていたかった。もううんざりだった。彼を殺すつもりの殺意が湧き上がったことに、自分でも慄き、恐怖した。
それから僕は、学校に行けてはいない。

ばあばは僕が落ち着くまでずっと背中を摩ってくれた。だんだん世界と僕を繋ぐ感覚が戻ってきた。最初に色彩が戻り、音が聞こえ、風が頬を撫でる感触があった。そして目の前には、大好きなばあばの顔があった。
「ばあば、僕・・・」
ばあばは僕の口を、そっと手で遮る。
「ソラ、ソラに見せたいものがあるのよ、おいで」
ばあばはそれだけ言うと振り向かすに家の裏に姿を消した。僕はおぼつかない足取りでばあばの後を追った。
その道はまるで、世界から隠されるみたいに大きな建物の裏側に続いていた。散歩でも一度も行ったことのない場所だった。ばあばの足取りはいつもゆっくりだから、すぐに追い付いた。
「ねえ、ばあば、どこに行くの?」
「とっても素敵なところよ。ばあばがソラに、最後の、とっておきの秘密を教えてあげるわね」
ばあばは僕の手を握った。 僕の心に、ぽっとひだまりができたみたいだった。ばあばのあったかくてつるつるの手を見る。やっぱりばあばは、僕の魔女ばあばだ。
「ここよ」
ばあばの声に、はっと顔を上げる。僕らは橋の上に立っていた。
「うわあ・・・」
思わずため息が出た。その景色は正面の僕らが今まで見てきた庭の景色とは違っていた。庭の景色は夏の光とめぐみを一身に受けた、強烈な活発さ溢れるものだった。しかしここには、そうした激しいインパクトはない。そこにはただただ、優しさと静寂があった。
橋の下には池が広がり、長く生い茂った木々の間から覗く優しい木漏れ日が、池に降り注いでいた。池の上にはには、睡蓮がぴったりと、まるで寄り添うように一塊りになり、光を教授している。所々に、白や薄桃色の花が赤ちゃんの手のひらみたいにちょこん、と空に向かって開いていた。
どこまでもどこまでも暖かな光が、優しく僕らを包み込む。ここになら居てもいいよ、とその景色は僕を受け入れてくれているみたいだった。
頬に涙が伝う。悲しみ、憎しみ、怒り、虚無感、希望、嬉しさ、安心、喜び。そしてその他の、言葉にならない無数の感情たち。
「ソラ。実はね、ソラの生まれるずーっとずーっと前に、この景色を、絵に描いた人がいるのよ」
ばあばは目の前の風景から目を離さず、僕に語りかけた。
「その人はね、絵描きさんだった。その人、男か女か、わかる?」
僕は麻痺してしまった頭を必死に回転させて考えた。なんとなく、こんなに柔らかくて、穏やかで、優しい、世界の幸せを集めたみたいな絵を描く人は女の人じゃないかな。そう、例えば、ばあばみたいな人かな、と思い
「女の人?」
と、ばあばを見上げながら答えた。ばあばはゆっくりと首を振った。
「いいえ、男の人だったのよ。しかもその人はとっても有名で、彼の死んでしまった今でも、たくさんの人がその人の絵を欲しがっているのよ」
僕は素直に驚いた。男の人と、この目の前の景色がすんなりとイメージとして結びつかなかったからだ。男の人なのに、こんなに繊細な、美しい景色を絵にするのか。
「ばあばがもっとずっと若かった時もね、いろんな人が、いろんなことを言ったわ。女はこれをしろ、女なんだからこれはするな。女はこんなことできないって。でもね、それは間違っていると教えてくれたのが、あなたのじいじだったのよ」
ばあばは僕の前に膝をついて、僕の目から流れる涙を、ハンカチで拭ってくれた。ちょうど睡蓮の花のように、柔らかい白だった。
「じいじはね、男か女かではなく、私自身と向き合ってくれたのよ。だから私の前で決して、男だから、とか女だから、とは言わない人だったわ。今よりももっと男と女で偏見や差別のある時代だったけど、そんな時代に生きた人でも、ちゃんと物事の本質を、真っ直ぐに見れる人だったの」
だからね、ソラ、と魔女ばあばは言った。僕の目を真っ直ぐ見て。
「あなたも、「自分らしく」生きなさい」