モネ 睡蓮 その1 魔女ばあばの家
僕が初めて魔女ばあばの家にきたのは、8月の頭、夏休みが始まってすぐのことだった。正確には僕がずっとずっと小さい頃何度かきたらしいけど、僕は小さすぎて覚えていないので、これが僕の初めてのばあばの家となる。
魔女ばあばは、僕たち家族の住んでいるところからとってもとっても遠いところに住んでいるから、僕たちはそこに着くまでに何時間も車に揺られなくてはならなくて、僕はもうお尻が痛くって痛くってたまらなくなっていた。それに効きすぎた車内のクーラーと車酔いで、やっとのことでお屋敷の門をくぐったときには僕はもうぐったりしていた。
「ソラ、おばあちゃんの家、やっと着いたよ」
前の席からお母さんの、やっぱり少し疲れたような、それでもなんだか晴れがましい、そしてどこかほっとしたような声がした。
「疲れたろ?もう夕方になっちゃったからなあ、夕飯、ソラの好物だといいな」
お父さんも長時間の運転でうんざりしたような、でも安心しきったような声を出した。
二人とも、なんとなく僕をそっと扱っているのがわかる。壊れないように、崩れなように。そんな気遣いが、逆に僕の居心地を悪くする。僕は肯定とも否定とも取れない曖昧な返事をし、窓の外を見た。外にはばあばの大好きだという沢山の、色とりどりの花や、木々が僕らを歓迎するように、金色に染まっている。
門を入ってから、さらに5分ほど車を進める。ばあばのおうちが広いとは聞いていたけど、想像よりもずっとずっと広大だった。そこらじゅうに緑が溢れていて、僕らののる車が走るこの石畳の道を避けるように、しかし、めいめいがのびのびと太陽の恵みを一身に受けて育っていた。僕とは正反対だ。
ちょうどそのとき車が止まった、ようやく正面玄関まで着いたのだ。
ドアを開ける。夕方なのにまだ少し蒸し暑い風がむわっと車内に入ってくる。クーラーによってキンキンに冷やされた僕の肌を優しく包んだ。草の匂いがする。
「よく来たね」
まるでひだまりにみたいに優しい声が降ってきた。上を見上げるとばあばが窓から僕らを見下ろしている。
「ばあば!」
僕は途端に嬉しくなり、そしてやっぱり心の中でほっとため息をついた。それでもこの安心感というのは僕のお父さんやお母さんが抱くそれとは違ったものだ。
「お母さん、久しぶり」
「お世話になります」
僕のお母さんとお父さんもばあばに向かって挨拶しながら、トランクから荷物を取り出す。
僕は数歩、建物に近寄って、それをしげしげと眺めた。家と言いがたいその建物は、ただの家と言うにはとても大きすぎて、そして荘厳すぎるた。いつか物語で見た、古城を思わせる立派な石造りで、大きな窓が沢山ある。ルツが長い年月をかけてまるで繭みたいに、下半分の建物を覆っている。それでもきちんと手入れがされているいるので、みすぼらしい印象はなく、ツルから伸びる葉は青々と繁っていた。まるでこの建物が、自然の作り出す綺麗な洋服を身に纏って、夕日がガラス窓に反射して、キラキラひかるアクセサリーをつけているいるみたいだった。
やっぱりこんな素敵な屋敷に住む彼女は、僕の魔女ばあばだ。
少ししてばあばが大きくて重そうな扉から現れた。ばあばは足が悪く、もう早く歩けないから何をするにも時間がかかるのだ。だからお手伝いさんを何人か雇っているらしい。今、この大きい扉を開けてくれた人は、初老のばあばと同じくらいかもう少し若そうな、こんなに暑い夏の日でもしっかりと紺色のスーツを着こなす、優しそうな男の人だった。もっとも、僕は本当のばあばの歳を知らない。以前、まだばあばの足が悪くなる前に、親戚の集まるお正月に僕らの街へきたときに不思議に思って聞いたことがあるんだけど、「魔女はね、不老不死、死なないのよ」とこっそり耳打ちされて驚いたことを覚えている。
「ソラ、こんなに大きくなって!」
ばあばはゆっくり手前の小さな階段を降りて僕の前までくると、ちょっとしゃがんで、シワシワの顔をもっとシワシワにして僕をふわりと抱きしめた。宝石を散りばめた細い手が僕の背中を撫でる。僕も自分の、8月なのに少しも日に焼けていない真っ白な腕を、ばあばの触り心地のとってもいいリネンの生地の背中に回す。
「ばあば、久しぶり」
自然と笑みが溢れる。なんだか、よくわからないけど、このとき僕は久しぶりに、本当に久しぶりに、自然に息ができる気がした。
その日の夕食はカレーだった。僕の大好物だ。とても長くて大きいテーブルに、僕と、ばあばと、お父さんとお母さんが、中央に向かい合う形で座る。雪みたいに真っ白なテーブルクロスと茶色いとろっとしたカレーのルーの色が対照的で、こぼしてもいいように、のテーブルクロスなのに、汚さないように慎重になってしまう。
僕らの正面には庭で摘まれたであろう色彩豊かな夏らしい花が、シンプルなガラスの花瓶の中に、品よく収まっていた。
「ソラの大好物で、よかったわね」
隣に座るお母さんが僕に微笑みかけた。僕は黙って、笑顔でうなずく。僕の笑顔が僕のお母さんを安心させることを僕は知っている。だから僕は、嬉しいことがあると、いつもより少し大袈裟に喜ぶようにしている。
僕は大きなお皿に、きっとお母さんより多いくらいのカレーをたっぷりとよそってもらう。スパイスのピリリとした香りが鼻と食欲をくすぐる。
お母さんが、夜、仕事に行くときに出す、質よりも時間を優先したレトルトカレーとは違う。きちんとスパイスからすり潰した、本物のカレーだ。そこに、多分ばあばの庭で取れた色鮮やかで新鮮な野菜や、大きなお肉がゴロゴロと入っている。
「美味しい!」
一口食べると舌の上で、たくさんの食材や風味がダンスを踊る。スプーンが止まらなくなる。
そしてちょうどその激しいステップに舌が痺れてきたところに、羊の真っ白でフワフワな毛を連想させる、口当たりのいいクリーミーな牛乳を流し込む。ほっとしたような満足感が口の中いっぱいに広がる。
「本当だ、うまいなあ」
お父さんも僕より少し大きい山のカレーをパクパクと美味しそうに口に入れる。お父さんはいつもご飯を食べるのが早い。僕も負けずに競争したことがあったけど、いつも後でお腹が痛くなってしまう。
「気に入ってくれてよかったわ、ばあば、ソラがくるって言うから張り切って自分で作ってみたのよ」
僕の右隣からばあばが僕に向かって笑いかける。つられて僕まで嬉しくなる。ばあばの周りの空気はなんだかいつも朗らかで優しい気がする。僕は嬉しくなって、先を続ける。
「うん、本当に美味しいよ!おかわり!僕、こんなに沢山ご飯食べたの久々!」
もう最後の方にはしまった、と思ったけど遅かった。すばやくお母さんをみる。その顔が少し曇ったのを、僕は見逃さなかった。僕は取り繕うように、副菜のサラダをつついた。一度口から出た言葉は引っ込まない。最近学んだばかりだと思ったのに、まだ時々その事実を忘れることがある。
おばあちゃんはそんなお母さんに気づいている。それでも相変わらずの穏やかな調子で嬉しそうに笑った。
「お母さん、それじゃあ、夏休みの間、ソラのことよろしくお願いします」
僕のお母さんはそう言って少し、ばあばに向かって頭を下げると、しゃがんで、僕を見上げた。
「いい、ソラ。おばあちゃんの言うことを聞いて・・・楽しい夏休みを過ごすのよ。何にも心配いらないわ」
僕は何も言わず、うなずくだけにした。本当は「いい子にして」って言いたかったんだろうな、と心の中で思った。もう最近は、以前は口癖のように言っていたそれを、お父さんとお母さんは、ピタリと使わなくなった。けど、それがいいことなのか悪いことなのか、僕にはわからなかった。
「僕からも、よろしくお願いします。」
パパは、ママよりもっと深く、丁寧に頭を下げた。
「ハイハイ、大丈夫ですよ。サトコ、カズユキさんも心配しないで、私がしっかり面倒みますからね」
ばあばは二人の少し心配そうな大人二人を交互に見ながら、まるで小さい子を安心させるように言った。
「じゃあね、ソラ、また、迎えにくるからね」
「お婆ちゃんと仲良くな」
お父さんとお母さんはそう言って一回ずつ僕のあたまを優しく撫でた。それでも、ばあばが僕を玄関で抱きしめてくれたときにような、自然で、安心感をもたらしてくれる動きではなかった。僕は気づかないふりをして、微笑む。
僕はあてがわれた自分の部屋の中から、もう真っ暗になった道を行く車のヘッドライトが、森の中に吸い込まれていくまで見つめていた。
つづく。