モネ 睡蓮 その2 たくさんの色と自然の力

次の日の朝、僕は閉め忘れていたカーテンからの刺すような朝日に目を瞬かせる。スプリングの絶妙な、寝心のいい大きなベットで体を起こした。

一瞬、あの見慣れた、傷だらけの自分の部屋ではないことに混乱したけど、すぐに僕は今魔女ばあばの家にいることを思い出して、胸を弾ませる。

パジャマのまま急いで階段を下って居間にいくと、ばあばはもう起きていた。

「あら、ソラおはよう」

「おはよう、ばあば」

僕らはそのまま外に出て、テラスで朝食をとった。昨日は暗くて見えなかったけど、入り口の近くにバルコニーがあって、白いまあるいテーブルと椅子が朝日の中で輝いていた。

朝のまだ爽やかさを残す風を受けながら、僕らはトーストをかじり、オレンジジュースを飲んだ。僕は目の前に広がる景色に心を打たれていた。

一面に果てしなく広がる緑の草原。遠くに生茂る山々。朝日の匂いを運ぶ風。それにゆれる葉の音色。虫たちの微かな羽音。それはまるで、壮大な絵画と音楽のように、僕には感じられた。

「ばあばの庭、たくさん色があって、すごく綺麗」

景色の迫力と色使いに圧倒された僕は、それでもそんな、平凡な感想でしか、その壮大さと素晴らしさ、そしてそれらが移ろう儚さを現できないのがもどかしかった。

「そうねえ、このお庭は、ばあばのもう一人の子供みたいなものだからねえ、手をかけているのよ。私はもう、足が悪くなってこんなにおばあちゃんだから、庭師の高山さんがやってくれているのだけど」

それからまた、二人はしばらく黙ってそのみずみずしい景色を堪能した。

少しして、ばあばが僕に言った。

「ねえ、ソラ。あそこの草は、ソラには何色に見える?」

ばあばは昨日とは違う宝石も何もついてない手を前方に伸ばし、僕らの少し前にある草原の一画を指差した。何もつけていないばあばの指先は昨日よりずっと細く見えた。

「あそこ?あそこは緑色じゃないかな?」

いまいち質問の意図が分からなくて、僕は首を少し傾げながら言った。

「そう、じゃ、そっちはどう?」

今度はもう少し遠くの、斜め左側の、ちょうど太陽の日差しを真っ直ぐに受けているあたりの草を指差して質問した。

「あそこ?うーん、あそこも緑だと思うな、だって、草しかないし」

「それじゃあ、あっちはどうかしら」

今度はまたさらに遠い、一本の古い木の下のあたりの草を指差した。自身の大きな葉の重さによって押し潰されてしまったみたいに枝の垂れた木の下の草だ。

「えーうーん。よく分からないな、あそこも緑?」

僕は本当に訳が分からなくなって、オレンジジュースを飲むばあばを見た。ばあばは時々謎謎を言うけれど、そこには何か意図があるんだ。僕に、何かを気づかせたいんだ。

「じゃあ、今、ばあばが指差したこの3箇所の緑は、全部同じ緑色かしら?」

僕はもう一度、注意深くこの三つの箇所を確かめる。そして、気づく。

「あ!ううん、違うよ。全部違う緑色だ。」

その途端、僕は四方八方を見渡す。そして、気づく。

僕の目の前には今まで見たことのないくらいたくさんの種類の「緑色」が広がっていた。クレヨンの緑じゃ、決して足りないくらい、様々な「緑色」だ。。

深い緑、薄い緑、透き通った緑、淀んだ緑、キラキラの緑、優しい緑、力強い緑、儚い緑、分厚い緑、繊細な緑・・・その緑たちをベースに、季節の花々が激しく、誇らしげに自らの色を添えていた。

これが「自然の色」なのだ。世の中には名前のつかない色たちがこんなにあるなんて知らなかった。これが、自然の力だ。人の考えや、感性を凌駕した、自然の、ありのままの色。僕らはそれに、何かを名付ける必要なんてないんだ。

「人間はね、時々とても傲慢になるのよ。そして、たくさんある個性的な物を一括りにしてしまうことがあるの。クレヨンの色とかそうね。例えば今、ソラが気づいたように、緑、と言っても一つ一つ違うでしょ?みんなそれぞれの色を持っているのに、それがぜーんぶ一緒になって「緑」ってなっちゃうのよ。それってなんだか、悲しいことよね。そういていくうちに人間は「緑」は「緑」と覚えてしまうのよ。そこに他の色があることに気づけなくなってしまうの。でもソラは違うわよね、例えみんなから「緑」は「緑」だ、と言われても、それは違う、って考えることが、もう、できるわよね。」

世界の秘密の一つに気づいた僕に、ばあばが優しいこえで言った。僕は驚いて、声も出ず、ただ、黙って庭の草木を見つめていた。

 

僕らは朝食の後、一緒にばあばの馬たちを見に行った。馬小屋に近くにつれて動物特有のあのつんとした匂いが鼻をついた。

「ばあば、お馬さんって臭いんだね」

するとばあばは心底おかしそうにカラカラとわらった。その笑い方が、夏の溌剌とした気候と緑の庭と、抜けるような蒼い空に響いて僕はとっても好きだった。

「あらあら、ソラちゃん。私たち人間だって、臭いわよ」

「えーそんなことないよ。僕は毎日ちゃんとお風呂にだって入るし、ばあばはいつも、甘い香りとか、爽やかな香りとかがいっぱいするもの」

僕は確かめるみたいにばあばの洋服に鼻先を埋める。今日は、夏の通り雨の最初の一粒みたいに、爽やかでみずみずしい匂いがした。

「そうね、もちろん私たちは毎日お風呂に入るし、大人になれば、私みたいに香水をつける人だっているわよね。でもね、それでは私たちの本来の匂いは消えないのよ」

「えー」

僕は訝しげに、自分の腕の匂いをかいでみる。それでも何も臭わない。

そうこうしている間に僕らは馬屋の前についた。さっきの匂いが一層強くなる。思わず指で鼻を摘む。

「こらこら、そうやって片腕が塞がってたら、すぐ落馬しちゃいまっせ、坊ちゃん」

そう言って現れたのは、黒いキャップをかぶって、tシャツをきて長靴を履いた、日によく焼けた屈強な男の人だった。

思わぬタフガイの登場に、僕は少したじろぐ。こういう種類の人間は、苦手なのだ。なんとなく自信があって、粗野で腕っぷしの立つ男が男として優れていると思っているタイプの人に思た。それに、否応なしに、あの子を思い出す。

でも、ふと、朝、バルコニーでのばあばのやりとりを思い出した。もうクレヨンの色分けは、やめようと思った。

「こんにちは。初めまして。ソラです」

勇気を振り絞って、僕はその人に向かって一歩踏み出し、ペコリとお辞儀をした。

「ああ、覚えてますよ。ソラ坊ちゃんですね。前に見たときはまだ、よちよち歩きの赤ちゃんだったのに、もうすっかり大きくなられて」

男の人はその肌の色と対照的な、健全で真っ白な歯を見せて、真夏の太陽みたいににっこりと笑った。その笑みにほっとしたのも束の間だった。

「今、何歳になられたんです?」

「今、10才です。」

なんとなく、嫌な予感がした。

「ほーこりゃ大きくなる訳だ。っていうと今・・・小学校4年生か。どうです?学校の方は楽しいですか?」

ジェットコースターに乗ったときみたいに、心臓と胃がギュッとなった。息が苦しくなり、じっとりと、嫌な汗が耳の後ろを伝う。どう答えとうかと考えているうちに、ばあばがいつもの、あの、包み込むみたいな声で言った。

「タムラさん、今日はソラに乗馬を教えてあげたいんです。よろしいですか?」

「はい、もちろんです。ささ、坊ちゃん、どうぞ」

タムラさんと呼ばれたその人は、何も気にする風もなく、僕を馬具がおいてある、少し離れた古い小屋へ案内した。

 

馬に乗ったのは、もちろん僕の短い生涯でこれが初めてだった。

初めは怖がって、鞍にすら跨がるのを渋っていた僕を、珍しくばあばが嗜めたり、応援したり、諭したりして、ついに乗ることになってしまった。

でも初めて馬にまたがったときの感動を、僕はこの先、ずっと覚えていると思う。

いつも猫背だった僕の背筋がピンとのび、肺の奥から大きく息を吸い込んだ。いつしか馬特有のあの匂いも全く気にならなくなっていた。これが、馬の匂いなのだ。僕たちがお風呂に入っても、その人の匂いが消えないのと同じ等に、僕がお母さんのベットやパジャマの匂いに安心するように、馬にも馬の匂いがあるのだ。それは臭いとかいい匂いとかではなく、彼本来の匂いで、それが生きているということで、輝かしい生命の印なのだ。そう思うと、その馬の匂いも、力強い魅力があった。

「お。初めてにしては姿勢がいいですよ、坊ちゃん」

僕の馬の口輪を持ってくれているタムラさんが下から声をかけた。初めてのことで恥ずかしかったり誇らしかったりで、くすぐったい気持ちになった。いよいよ熱く照りつける日差しに負けないように、ヘルメット兼日差しよけをもう一度いじると、いよいよ馬に、前進の指示を出した。

グラッと大きく視界が揺れる。思わず全身に力を込めると、それを見越していたタムラさんが声をかけた。

「あんまり力まないで、リラックスして。馬はね騎手の緊張を敏感に察知しやすいんだ。パニックになったら逆に振り落とされるよ」

そんな、ボロボロの今にも落ちそうな桟橋の上でリラックスしろと言われているような、無理難題のように聞こえたが、僕はなんとか大きく一回深呼吸した。大丈夫。駆けたりせず、慎重に渡れば、きっと桟橋だって落ちない。

なんだか、自分の足を動かしてないのに、前に進むなんて変な気分だ。それも無機質で均一な車のエンジンが自分を運んでいるのではない。馬によって、生き物によって、自分が彼と一緒に歩いているのだという感触がある。それがとても面白かった。僕とこの馬との間に、何かが繋がっているのだ。

もう日がだいぶ高くなって、体をじりじりと焼き付けた。僕の真っ白な腕が、今は火照って真っ赤になっている。馬の体調を考えて、こまめに休憩は取ったが、それでも僕は、乗馬をやめなかった。

彼らに乗るのは、まるで、言葉のいらない会話を楽しんでいるみたいで、とても心地よかったからだ。傲慢かもしれないけれど、僕は彼らの息遣いや、筋肉の動き、耳の傾けかたから何かを読み取れる気になっていた。なんと言っているかなんてもちろん分からなかったけれど、それは歌詞のわからない外国の音楽みたいに、僕をとても穏やかな気持ちにさせてくれた。もっともっと、彼らと時間を過ごしたい。

「よし、じゃあだいぶ慣れてきたから、いよいよ次は坊ちゃんが、この馬を動かしてください」

そういうとタムラさんは、そっと、手綱を掴んでいる自身の腕を離した。