ピカソ 泣く女 おかしな紙芝居

さあよってらっしゃい!みてらっしゃい!今日のお客さんたちはなんてラッキーなんだ。保証するぜ、世界一の幸せ者だ。なんたって今日は、俺のとっておき、「おかしな画家」の紙芝居を持ってきたんだからな。これが俺の十八番よ、イッチバン面白いやつなんだ。さあさあもっと近くにおよりよ。子供たちは見えるように、もっと前の方に、さあさあ!そこの旦那も。とっても楽しくておかしいお話の始まりだぜ。

昔々あるところに、一人の画家がいた。そいつがどうもおかしななりをしていてね。頭には大きなソンブレロを被り、口には口髭のつもりなのか、パスタをつけていた。ちょうど蝶ネクタイ見たいに、三角形が二つくっついて、外側がびらびらに波を売っているやつさ。一体どういう経緯でそいつがパスタを口の上なんかにつけようと思ったのか、そしてなんでそれが、例えばもっと感触の似ている毛糸だとか、動物の毛だとかではなくて、そのパスタでなくてはならなかったのか、それは誰にもわからなかった。そして着てる服も物はとってもいい、誰もが知っているブランド物のスーツを、なぜか裏っ返しにしてきているんだ。ある時どこかの若者が
「君はなぜ、せっかくそんなに高級なスーツをきているのに、裏っ返なんだい?それじゃ、肝心のブランドのロゴが見えないじゃないか」
すると男は、まるでこの若者が何かとっても馬鹿げたことを言ったみたいに、ぎょっと、その大きな目をさらに大きくしてこう言ったのさ。
「高級だからさ。汚すわけには行かないだろう?内側なら、汚れても、外には見えないからね」
「でも、じゃあ君は一体、いつ外側にしてスーツを着るんだい?」
「自分の家でだよ。大きな鏡の前で取り替えるんだ。これは俺っちのスーツだからな、誰にだって、少しだって、見せてやんねえよ」
またあるときには、あるご婦人が、こう聞いた。
「ねえ、あなたはいつも、晴れている日には傘をさして、雨の日には何にもささないでお出かけになるでしょう?なんでなんですの?普通、逆ではないくて?」
男は答えた。
「だって奥さん、俺たち、晴れなんて、もう散々、見飽きているじゃないですか。いつだっていつだって、晴れ、晴れ、晴れ。もう太陽は見飽きたんです。だから僕は晴れの日に、俺っちの傘で、奴さんをすっぽり隠してやるんだ。お前の顔なんざ、もう見たくねえってな。でもたまーにふる、あの珍しい雨の日にゃ、せっかくの雨粒を避けていたら、もったいないじゃありませんか。だから傘なんて野暮な物、ささないんです。なんせ、この村じゃ、滅多に雨なんて降らないんだから。」
「でもねえ、貴方はそんなふうにいうけれど、この街にだって、雨は降りますよ。何もハワイやカリフォルニアじゃないんだから。梅雨だってありますし、かんばつだって、滅多に起こらないじゃないですか。どこかの国みたいにタンクに雨水をためておかなくてもいいし、そんなに極端に雨が降らない街ってわけではないでしょう?」
ご婦人がこう反論すると、男は今度はむっつりした顔になって、こう言い換えした。
「なんで奥さんは、この世界は晴れている日の方が多くて、雨の日が晴れの日より少ないのが当たり前、みたいなこと言うんです?神様が世界を作ったんですよ?なら、きちんと公平に半分ずつにするべきです。つまりね、今日がもし晴れた日だったら、明日は絶対雨にする、とか。週ごとや、月ごとで変わってもいい。でも、それは半分ずつであるべきなんだ。だってそんなの不公平じゃないか。太陽さんだけたくさん出番があって、雨さんや雲さんはたまにしかお空の劇場に登場しないなんてさ。だから俺は、せめて太陽のやつに「ふん、お前なんか見飽きたよ、珍しくもなんともないね」って、言ってやってるんですよ。さあ、貴方も言っておやりなさい!そうすれば奴さん、きっとしょんぼりして退場して、もっとたくさん、雨さんや、雲さんの出番が来るはずですから」
と、こんな調子なんですわ。おかげでこの男、街のみんなからは「おかしな画家さん」、なんてあだ名で呼ばれてる。
それでもたまに、彼の家にお客が訪ねてくる事があるんでさ。なんせ変わった画家だから、きっとその芸術の腕は天下一品なんだろうって思う連中がさ。だから美人でいいとこのお嬢さんとか、お金をうんと持っている商人のおじさんなんかが、たまあに彼の家の扉を叩く。そうそう、家って言っても、彼が住んでいるのは街から離れた森の中。しかもなんと木の上なんだ。まるでリスや小鳥みたいにそこに自分の家ーーこれは巣と言っても差し支えがないだろうねえ、なんせそいつのアトリエ兼自宅はもう、ヒッチャカメッチャカに散らかっていて足の踏み場もないんだ。まだ、動物の作る巣の方がきちんと整頓されているね。
しかも、なんでその画家が、わざわざそんな木の上に住んでいるかって言うとさ、税金がかからないっていうんだ。
「ここの領主様は、土地の広さごとに税金を課しているんだろう。ところがどっこい俺っちは「土地」なんてひとっかけらも持ってねえよ。これじゃ、払いたくても、税金なんて払えないね」
そう言って得意になって、金色の歯をむき出しにして、笑うんだ。本当に、めっぽう変わってるね、この絵描きは。
とにかく、そうして絵を書いて欲しい人が、一生懸命木を登って、その家に着く。そして扉を叩くと中からひょっこり、彼が顔を出すはずさ。彼は大体晴れの日は、家にいるんだ。さっきも言ったみたいに彼は晴れの日に心底うんざりしているからね。逆に雨の日に訪ねちゃ、ダメだよ。雨の日は傘をささずに森の中や、街中を一日中だって、歩き回るからさ。なんならスキップしたり、ときにはホッピングなんかもやったりする。あのバネのついた子供用のおもちゃではねながら
「雨雨降れ降れもっと降れ、雨がふりゃふりゃ心が跳ねる。心がはねりゃ、世界も跳ねる」
なんて歌をしゃがれた声でずーっと歌ってやがるんだ。
それで肝心の部屋なんだけどさ、まるで100人の山賊がそこで歌って踊ってのてんやわんやの宴をしたのかっていうくらい散らかっているんだ。絵具やらキャンパスやらが床にゴロゴロしてるし、もちろん絵具の中身は散らかり放題。それに絵とは全く関係のないガラクタが、部屋のあちこちに山積みになってるんだ。タイヤのない自転車とか、もう鳴らなくなった笛とか、ぼろっちいぬいぐるみとか、たくさんのネジとか、外国のお金とか、一体どこから持ってきたのか、この辺りには海もないのに、どこかの海岸の砂の入った大きな瓶とか、そんな物さ。そしてもし、作品を書いている途中で足りない色があったら、奴さん、そのガラクタの山から探さなくちゃならないんだ。でも不思議と、いつだってすぐに見つかるのさ。色がなくなって、町まで買いに出かけなくちゃならいことには絶対ならないんだ。
「必要なのは、いつだって俺っちのアトリエの中にある」
それがその画家の口癖だ。
あるとき掃除好きなお嬢さんが人が、人物画を頼みにその家に来たときに、あまりに汚かったんで、お掃除しましょうかって言って彼のガラクタの山に触れたんだ。その途端、彼は急に血相変えて怒ってさ。ここじゃとても言えない汚らしい言葉を散々その可哀想な女の子の前で散々吠えた後、ヒョイっとその子を家の外に出して、ピシャリと扉を閉めてしまったらしいんだ。可哀想にその子、一目散に家に飛んで帰って、それから二度と、森には近づけなくなったそうだよ。
さあさあ、みなさん。もうそろそろ、そんな風変わりな画家さんが、一体どんな絵を描くか知りたくてうずうずしてきたろう?こんなに変わり者の画家だったら、さぞかし素晴らしい、壮大で、偉大で、迫力のある絵ができることだろう。
うんうん、わざわざ彼の元を訪れた人たちは、みんなそう思ったわけさ。それだから、遠路遥々街から遠いこんな森の中に来て、高い高い梯子を登って。こんな、ゴミ置き場みたいなアトリエで、何時間も何時間も彼の前で大人しく、座り心地の決して良くない椅子に、お尻を痛くしながら座ってたんだからね。
「さ、お客さん、出来ましたよ」
そう言って画伯が見せた絵が、こいつさ。

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な?ぶったまげるだろう?なんだいこいつは?まるで幼稚園児が、園の工作の時間に、色紙をめちゃくちゃに貼り合わせたみたいじゃないか。なんてちんぷんかんぷんな色だろう。それに顔のパーツの配置もめちゃくちゃだ。まるでこの女は鏡の中に住んでいて、うっかり誰かが石をぶつけてその顔を割ってしまったみたいじゃないか。しかも顔色がーーどこからどこまでを顔と許容するのか難しいところだがーーなんだか不健康そうな、まるで昼間食べたボロネーゼのパスタでお腹を壊してトイレに閉じこもっている可哀想な女の顔だった。
モデルの女性はこれを見て、あまりの醜さに泣き出してしまった。でもそれはごもっともだった。なんせ彼女は、村一番の美女で、今度結婚して新居を構えるのにその絵を、客間の一番目立つところに飾ってみんなに自分の美しさを、見せつけるつもりだったんだから。
女は金を返せと迫ったけど、男は頑として聞かなかった。
「俺っちは芸術家さ。あんたは芸術家の俺に金を払って絵を描かせた。俺っちの芸術が理解できないのは、そりゃ、あんたの問題だ。俺っちのじゃあ、ない」
女は顔を真っ赤にして、それこそ彼の描いた絵のように、目や、口や、鼻がひん曲がって、そっくりになっちまった。
それからその女は、その美貌に似合わず、神様も耳を塞ぎたくなるような言葉で彼を罵り、出ていっちまった。
「なあんだ。やっぱり俺っちはすばらし画家さ。お嬢ちゃんの今の顔、俺の描いた絵にそっくりだったぜ」
画家は一人、誰もいないアトリエで呟いた。


そうそう、この話にはもう一つ面白い余談があってさ。
ある男が彼のところに、絵を頼みにいったんだ。失礼を承知でいうけどさ、その男っていうのが、もう、目も当てられないほどの醜男なんだよ。髪はハリネズミの背中みたいに剛毛で、鼻は熟したトマトみたいに真っ赤で大きくて、肌は使い古されて日焼けしたレンガみたいに赤黒く、目は窪んでいて、瞳は淀んだ灰色で、まるでその日の天気みたいに曇ってやがった。口は大きく、歯はガタガタで黄ばんでいた。
そんな男を、この素晴らしい画家さまは、どう描いたと思う?
なんと、うんと美青年に描いたのさ。どこかの国の王子様っていうくらいにね。清潔感があって、気品に溢れてて、顔の線とっても優美だった。
男はそれを見ると、飛び上がるほど喜んで、何度も何度も画家と握手を交わした。
「いやあ、あんたは全く、素晴らしい画家だ。見てみろこの出来栄え。上出来じゃないか、まさに神の如しだね」
そうしてその素敵な王子様は、その絵を何に使ったと思う?
自分の見合い用の自画像にしたのさ。
もちろん相手の女の子は、彼に会った途端、気絶して、病院に運ばれちまったってよ。

モネ 睡蓮 その4 僕だけの場所

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その日から僕は毎日庭に出て、たくさんのものを描いた。それはどこまでも広がる果てしない空であり、大地に息づく草木であり、庭に遊びに来る愛くるしい小動物たちだった。そして、僕が一番たくさん描いたのは、もちろん大好きなばあばだった。
ばあばがバルコニーの椅子に腰をかけて遠くを見つめていたり、書斎で本を読んでいるところだったり、キッチンで料理を作っているところだったりを描いた。僕の描いた絵を見せると、ばあばはいつも嬉しそうに笑い、そしてたくさん褒めてくれた。まるで僕の絵から、新しく新鮮な空気でも吸ってるみたいに、そのときのばあばはとっても生き生きしてみえた。
僕の一番お気に入りのばあばは、あの秘密の裏庭の橋の植えて、僕を真っ直ぐに見つめてくれたときの表情だった。あの、宇宙の広がりみたいな真っ直ぐな黒い目とか、珍しく真剣にきゅっと結ばれた口元とか、いつも優しいばあばのまゆがスッとなって凛々しささえ感じたところとかを思い出して描くのが好きだった。
そしていつしか僕の、僕らの「いつもの場所」があの睡蓮の橋の上だった。僕らは何をするでもなくその橋の上から、たくさんの睡蓮たちと、池の反射する光と、優しくしげる緑と、そして庭の暖かな雰囲気を満喫した。そこを吹く風は、いつだって穏やかで、心地よかった。
「睡蓮の花はね」
あるときばあばが言った。僕らが橋の上に座って、サイダー味のアイスキャンディーを食べていたときだ。
「お日様と一緒に起きて、そして眠るのよ」
僕はやっぱりちょっとばあばの言うことが分からなくて、首を傾げた。アイスの滴が、手にぽたっと垂れる。
「朝になると花を咲かせるけど、夜になると、萎んでしまうの。ほら、ソラも学校の夏休みの課題か何かで、朝顔の観察とか、やらなかった?ある種の花はね、ずーっと咲いているわけじゃないのよ。あるふさわしい時期がきたら花開いて、そして、萎んでしまうの」
「なんだか、悲しいね」
僕は思わず、呟いた。
「そうかしら?」
今度は、ばあばが首を傾げた。
「夜眠るのはね、睡蓮が次の日、また美しく咲くために準備しているのよ。夜はね、おやすみの時間なの。ソラも夜になったら眠るでしょう?ずっと起きっぱなしじゃ、疲れちゃうものね」
そう言うとばあばは僕の手を優しく握った。
「だからね、例え真っ暗で、太陽がもう一生昇らないんだって思っても、必ず朝はくるし、花はまた開くのよ。朝と同じくらい、夜はとっても大切なの。よく、覚えておいてね」
そう言ってばあばはアイスキャンディをペロリとなめた。ばあばの真っ白な髪の毛が、日の光に照らされてなんだかとってもきれいに見えた。

僕は朝から憂鬱だった。そんな僕の気持ちを映し出したみたいに、空模様も、曇っていた。せっかく今日はばあばの家にいる最後の1日なのに。明日になれば、お父さんとお母さんが迎えに来てしまうのに。
僕は、戻りたくなんてなかった。ずっとここで、ばあばと一緒にいたかった。ここで、この秘密の庭で、絵を書いたり、馬に乗ったり、散歩したり、ばあばにもっといろんな魔法や、世界の秘密について教えてもらいたかった。もうあんな学校になんて戻りたくなかったし、お父さんとお母さんにもなんだか会いたくなかった。僕はここにいる間、一回だってあの二人を恋しいと思ったことなんてなかった。
思い足取りで階段を降りる。バルコニーを見るとばあばの姿はなかった。ただ空が分厚い鉛色の雲に覆われて、たまにびゅうっと強い風が吹いていた。寒くはないはずなのに僕は一瞬体を震わせた。
「起きたのかい、ソラ。今日はお天気が悪いから、食堂で、ご飯を食べようね」
ばあばがパジャマ姿にガウンを引っ掛けて現れた。僕は黙ってうなずく。
朝食を食べている間も、言葉は少なかった。僕の気持ちに気づいているであろうばあばは、それでも何も言わずに紅茶をすすった。
今日は風が強いので、外には出られそうになかった。代わりに僕らは居間に行って、お手伝いさんたちも集めてトランプをしたり、ボードゲームをしたりした。ここに来て僕はばあばから、チェスやタロット占いなんかを教わった。まだ慣れてなくて、全然ばあばにはかないっこないけど、運じゃなくて、頭を使うゲームの方がずっと好きだ。自分の努力次第で勝つことができる。
午後には書斎で本を読んだ。魔女ばあばの家に来てから、僕はたくさんの本とも友達になった。僕のお気にいりは「トムソーヤの冒険」だ。読んでいてドキドキワクワクするし、裸足で自然の中を駆けずり回るトムソーヤは僕の憧れだ。勇気があって、物怖じしないし、それにとっても頭がいい。学校の成績はイマイチだけど、みんながあっと驚くようなことをやってのける。今度また、ばあばのお家へ来たら、僕を庭を裸足で駆け回って、木登りにも挑戦したい。
「せっかくの最後の日なのに、お外に出られなくて、残念ねえ」
ばあばが肩を落としながら、窓から外を見る、午後になって風が一層強まり、雨も降り出してきてしまった。僕は雨は嫌いじゃないけど、雷が怖い。あのピカって突然光って、その後に地獄から響いてきたみたいな唸り声を聞くと縮こまってしまう。
僕はたまらなくなって。ソファーから立ち上がり、ばあばの座っている二人がけのソファまでいくと、ばあばに抱きついた。
「どうしたの?」
ばあばが落ち着いた声で聞いて、僕の頭を撫でる。僕はいよいよ我慢できなくなり、ばあばを見上げながら、今日一日ずっと聞いてみたかったことを聞いた。
「僕、明日帰りたくないよ。ずっとばあばといたいんだ。お願い、僕、このままずっと、ここにいていい?」
僕は心のどこかで、ばあばが快く承諾してくるものと思っていた。ばあばはいつだって僕のお願いを聞いてくれたし、ばあばはとっても優しいのだ。きっと僕のことを可哀想に思って、ここにおいてくれるに違いない。
「ソラ、それはだめよ」
珍しく口調の強いばあばに、僕はそれこそ雷に打たれたみたいな衝撃を感じ、はっと顔をあげた。
「ソラ、ソラはここでばあばとたくさん、いろんなことをしたでしょう。いろんなことを話したでしょう。だから今度は、お父さんや、お母さんや、それから学校のお友達たちと、いろんなことを話さなきゃ。ソラはね、これからもっともっと勉強して、たくさんたくさん絵を書いて、好きなことをして、心を注げるものに出会って、そしてばあばのお家やお庭なんかよりずっとずっと広い世界を見るのよ。もちろんばあばのところにもたまに、遊びに来ていいわ。例えば、こんな夏休みとかね。でもね、ソラはずっとここにはいられないのよ」
なんだか裏切られた気分だった。ばあばがそんなこと言うなんて、思ってもみなかった。ばあばは変わらずに僕の頭を撫でてくれているのに、顔はいつもより険しくなっていた。僕を叱っているみたいだった。僕は急に怖くなり、そんなばあばの顔を見続けることはできなかった。
「もういいよ!ばあばなんて嫌い!」
僕はそれだけ言うと逃げるように階段を駆け上がり、自分の部屋の戸をバタン!と閉めた。そしてベットに飛び込んで、泣いた。
なんだか僕は、本当に、世界に、ひとりぼっちな気分だった。
誰も知らない宇宙の果てに放り出された気分だった。それでも明日帰らなければいけないと言う現実の恐怖が僕の心をギュッと締め付けた。もう何もかも忘れて消えてしまいたかった。僕はいくら頑張ったって、トムソーヤにはなれなかった。

そのまま眠ってしまったみたいだった。気づくと部屋の中は真っ暗だった。ただごうごうと唸る風の音と、ガラスに打ち付ける雨の音が、部屋の中に響いていた。僕はゆっくりと起き上がって目を擦る。窓越しに見る外の景色は、叩きつける雨のせいでよく見えない。日もとっくに暮れてしまったみたいだった。時計を見ると夜の7時だ。
お腹が空いたので下に行くと、食堂に一人分のカレーが用意されていた。僕がばあばのお家に初めて来たときの夜にも出た、ばあばの手作りカレーだった。僕の大好物。あんなにひどいことを言ったのに、ばあばはちゃんと僕の分のご飯を作ってくれているのだ。
カレーの匂いにお腹を刺激され、僕は悲しさと虚しさを抱えたまま椅子に座り、カレーを頬張った。風と雨の音と一緒に、スプーンが食器を打ち付けるかちゃかちゃと言う音が混じった。
あんなに大好きなカレーのはずなのに、僕は半分も食べれなかった。味は、一ヶ月前と同じはずなのに、なんだかとても空っぽな味しかしなかった。僕はスプーンをおき、そのまま自分の部屋に引き返した。
「ソラ」
自分の部屋のドアに手をかけたとき、ばあばが僕を呼び止めた。
僕はどんな顔をしていいのかわからないまま声のした方を向いた。
ばあばの部屋のドアが開かれていて、ベットの先が見えた。すると、ばあばの手だけがドアの端からにょきっと出てきて、僕を手招きした。
僕はゆっくり、ばあばの部屋にはいった。
ばあばはパジャマに着替えて、大きなベットに一人ちょこん、と座っていた。こうしてみると小柄なばあばは、なんだか子供みたいに見えた。
そういえば一ヶ月間、この家にいたけどばあばの部屋に入るのは初めてだった。大きなベットを中心に、部屋には2、3まいの絵が飾ってあった。小さな机が部屋の隅にあり、その手前に鏡があった。ちょうどベットの近くにはランプがあり、それが柔らかい光を放っている。僕はいつか学校の理科の授業でみたホタルを思い出した。
「こっちにおいで」
僕はばあばの枕元にいき、そのまま二人して無言でベットの中に入った。ベットはばあばの匂いがした。
「夜ご飯、ちゃんと食べたかい?」
「うん、食べたよ。ありがとう。ばあばのカレーはいつも美味しいね。」
半分しか食べれ無かったのは黙っておいた。なんとなく、お母さんみたいに、ばあばも傷ついてしまうんじゃないかと思ったからだ。
「ね、ソラ。あれをみてごらん」
そう言ってばあばが、ベットから一番近くにある絵を指差した。僕はそれがなんの絵だがすぐにわかった。
「僕らの魔法のお庭だね」
「そうよ。これはあの画家さんの描いた絵。睡蓮はね、ギリシア神話っていう古いお話の中で「ウォーターニンフ」と呼ばれていて、日本語で「水の精」と言う名前がついているのよ。だからあの池にはいつも、妖精さんたちがいるのよ。ほら、夜になると花が萎んでしまうって、話したでしょう?きっと夜にはその花が、妖精の本当の姿を取り戻すのね」
それから魔女ばあばは、ふふっと笑って先を続けた。
「それからね、この橋の上で、あなたのじいじがばあばに、結婚してくれませんか、って言ってくれた場所でもあるの」
そう言って本当に、心底愛おしそうに、またふふっと笑った。その響きがとても好きだった。
「だからね、ソラ、本当に辛いときがあったら、あの池に行を思い出しなさい。あなたの心の中に、あの秘密の庭を作りなさい。そこはいつだってあなただけの場所で、誰も立ち入ることができないの。もし誰かがあなたをいじめても、あの場所と、それからばあばだけは、ずっとずっとあなたの味方だから」
ばあばは、僕がいじめを告白したときみたいに、僕の背中を摩ってくれた。
「ばあば」
僕はまた、ばあばの胸に飛び込んで、そして泣いた。自分の中の不安を、恐怖を、怒りを、自分のちっぽけさを、優しい優しいばあばにぶつけた。
「大丈夫、大丈夫よ。ソラ、あなたなら大丈夫」
ばあばはいつまでも、いつまででも僕の背中を摩ってくれていた。

僕は目が覚めたとき、まだ、夢の中にいるんだと思っていた。僕は悪夢を見ていているんだと思った。だから早く、覚めろ、覚めろと思って、目をギュッとつぶって、耳を塞いだ。真っ暗な中で、何か、大きくて怖い動物の唸り声を聞いたからだ。
でもいつまで経っても目の前の景色はぼやけなかったし、音が遠のきもしなかった。そこで恐る恐る周囲を見渡した。手探りであたりを探った。
すぐに何かに触れた。それは暖かい人の肌の温もりだった。でもその体はぶるぶると震えていて、汗でじっとりと湿っていた。
僕は嫌な予感がし、急いで枕元のランプを探って明かりをつけた。
ばあばだった。
ばあばが、体を折り曲げて、汗を流しながら唸っていた。
「ばあば!ばあば!どうしたの?どこか痛いの?ねえ、ばあば!」
僕はそっと、でも急いでばあばの体を叩いてみた。それでもばあばは返事をしなかった。ただ、ずっと、今まで聞いたことのないような苦しい声で唸っているだけだった。
「ねえばあば、どうしたのさ。ねえってば、何があったの?お医者さん行く?」
僕はますますパニックになった。どうしていいのかわからなかった。人を呼びに行こうと思い立ってベッドを出たけど、壁にかけてある時計が午前2時を指していた。昼間いたお手伝いさんは、一人残らず帰ってしまっていた。僕は反射的に救急車を呼ぼうとして電話を探した。だがどこにも見当たらない。
確かばあばは電話が嫌いで、ケータイ電話すら、持っていないことを思い出した。それでも、僕や僕のお母さんは時々ばあばと電話で話していたから、少なくとも一つは、この家のどこかにあるはずだった。
僕は必死にこの一ヶ月を思い出した。いつか、どこかで、ばあばは電話を使っていなかったか?
しかし、気が動転しているせいか、それとも本当に電話を使う場面がなかったのか、とにかく僕はばあばが電話を使っている姿を思い出せなかった。
僕は自分の部屋に駆け込んで、リュックの中をひっくり返してスマートフォンを見つけ出した。でも、圏外だった。
半ベソをかきながらばあばの部屋に戻る。ばあばはさっきと同じ姿勢で、唸っていた。
僕は反対側に回って、ばあばの顔を覗き込んだ。僕はいつも穏やかそうに笑っているばあばが、目をギュッとつぶり、歯をむき出しにしている姿は、なんだかまるで、ばあばが、悪い魔女に乗っ取られてしまったみたいだった。僕の知っているばあばは、どこか遠くに行ってしまったみたいだった。
僕は階段を転げるように降りた。そして下の階をくまなく、しかし素早く見て回った。居間や食堂や、書斎や玄関ホール。しかしどこにも電話の姿はなかった。
そのとき僕の目は、はっと何かを捉えた。視界の隅で、何かが光ったのだ。僕は目を凝らしてその緑の光の先を追った。
僕らの秘密の庭だ。あれが光っているのだ。
もう考える余裕なんてなかった。僕は突進するように窓を突き抜けた。けたたましい音とともに風と雨が僕の体を叩きつける。雨の滴が風に流されて額を濡らしていく。風の轟音が耳を殴りつけた。そのまま階段を使うのももどかしく手すりからジャンプし、そのまま庭に着地した。湿った草が僕の足の裏を濡らす。
その時一瞬、僕の視界が真っ白に染まった。そして次の瞬間、まるで大きな怪物の唸り声みたいな音が、僕の耳をつんざいた。なんなのかすぐに分かった。雷が落ちたのだ。
僕の体は全く動かなくなってしまった。自分の心臓の音がやけに大きく聞こえ、根が生えたみたいに足が地面から離れなかった。雨が僕の視界を奪い、パジャマを濡らした。髪が顔に張り付くも、それすら拭うことができない。
はっはっはっ
そこは完全な暗闇だった。自分の呼吸する音だけがやけに大きく聞こえる。僕は思わず引き返したくなったけど、必死にそれを考えるのをやめた。だって一回でもそれを考えてしまったら、この動かなかったはずの足は、まるでウサギみたいに素早く、家の中に向かって飛んでいくのが分かっていたからだ。
でも、僕は進まなくちゃならない。あの秘密の庭に行かなくちゃいけない。ほら、もう、すぐそこだ。
僕は泣きながら暗闇の中に立ち尽くした。もう涙だか雨だかわからない滴が僕の顔と、そして体全体を濡らした。
もうダメだ、と思った。もう、限界だ。こんな真っ暗で、煩くて、地獄みたいな中に一人で立っているなんて。
だけどその時、僕の中の何かが、激しく叫んでいた。僕の心が、あの庭を、どうしても求めているのだ。僕は行かなくてはならなかった。例え雷が落ちようがひょうが降ろうが、槍が降ろうが僕はそこにたどり着かなくてはならなかった。
ばあばのために、そして、僕自身のために。
まるで呪いが溶けたみたいに、一歩、足が前に出た。深呼吸して、もう一歩、踏み出す。さらにもう一歩、そして、その先へ。
気づけば走り出していた。そのまま一目散に裏に回る。そしてカーテンのように垂れている木々の枝を手でがむしゃらに退けて、「秘密の庭」に入った。
入ってみて、僕はその奇妙さに、一瞬、思考が停止した。
風の音が、雨が、ピタリと止んだのだ。僕はただ。息を弾ませ、身体中から滴を滴らせて橋の上に立っていた。空からは大きな満月がちょうど木の隙間から、太陽の代わりその光を池に注いでいた。空には雲ひとつなく、ただ黄金色の月と、人魚の涙を集めたような星たちが漆黒の空一面に散りばめられていた。池は大きな鏡みたいに天空の景色を写していた。
あれほどまでに僕を叩きつけていた雨も、鼓膜を震わせていた風も、そして地獄の底から叫ぶ雷も、まるでそんなもの、この世界には存在しないようにピタリと、鎮まったのだ。
まるでこの庭だけが、世界の事実や、ことわりとは一線を隠しているみたいに。
すると池ずっと向こうのほうに、虫の大群のような、僕がいつも使う、筆の柔らかなタッチのような小さな何かが塊を作り出した。それは橋の上から見るとたくさんの、緑色の集まった点々みたいなものだった。しばらく動いていたが、それがようやく人の形をしていることがわかった。
その人はまるで僕を吟味するみたいに、真っ直ぐに僕を見つめていた。もちろんそれはシルエットだけなので、目や口や、髪の毛なんかはなかったけど、僕にはその人にみられていることがちゃんとわかっていた。だって僕は、ずっと昔、まだ僕が小さかった頃、その眼差しが、いつも僕を見つめてくれていたのを、心はちゃんと覚えていたからだ。
「助けて」
僕は考える前に、口にした、もう、藁にもすがる思いだった。
「ばあばが、僕の魔女ばあばが苦しんでるの。助けてあげたいのに、どうすればいいのかわからないの」
僕の目から、まるでさっきの雨みたいに涙が溢れてきた。僕はなんとしても魔女ばあばを助けたかった。誰にもわかってもらえないときに、いつも話を聞いてくれたのはばあばだった。誰かに変われと言われたときに、我慢して、強くならなくちゃと思ったときに、僕は僕のままでいいと教えてくれたのはばあばだった。世界の秘密を分かち合われてくれてたのはばあばだった。僕の絵を好きだと言ってくれたのはばあばだった。自分がひどくちっぽけだと思ったときに、僕自身に価値があると気づかせてくれたのは、ばあばだった。僕が甘えて、弱くなってしまったときに、僕が僕自身さえ信じる力をなくしたときに、僕ならできると励ましてくれたのはばあばだった。
いつだって、魔女ばあばが、とても大切なことを教えてくれた、。
僕を、心の底から愛してくれた。
「ばあばはいつだって、僕を助けてくれた。僕もばあばを助けたい!」
僕はその人に向かって叫んだ。穏やかな緑色の粒に向かって叫んだ。
するとその人はゆっくりと、滑るように池のうえを移動して、僕の目の前にきた。水には波紋すら落とさなかった。
そしてそのままその人は、柔らかな、でもとても強い光で輝き出した。まるで月光を一身に宿しているみたいに。僕は目が開けられなくなって、思わず手で顔を覆った。
手の隙間から光がもれ、僕の手を赤く照らす。光が庭全体を大きく包み込んだ。
だんだんとその光が弱くなり、最後には僕のてのなかに消えた。ずっと握り締めていた、僕の左手に。
そっと開けてみると、そこには、夜は開かないはずの睡蓮の花が握られていた。なんだか不思議な気分だった。まるで、世界の全てと、いっぺんに触れ合ったみたいだった。体が、とても暖かかった。そして僕はどういうわけか、まだ涙を流していた。言葉にならない感情が、頬を伝って流れ落ちるのを心地よく感じていた。
それから急いで部屋に戻り、ばあばの顔の近くにその花をそっと、持っていった。
まるで赤ちゃんのほっぺたみたいな淡いピンク色の花はばあばの口もとで、だんだんぼやけて、さっきのシルエットの形のような、ぼやけた
タッチになった。たくさんの色が混じり合ったそれは、そのまままるで何かに導かれるみたいにばあばの口の中に吸い込まれていった。
ばあばが大きく、ひとつ、ため息をついた。まるで何十年も前からため込んでたような、深い、深い、安心したため息だった。

僕は玄関の階段に座って、僕のお父さんとお母さんを待っていた。両隣にはこの一ヶ月の間の僕の絵の数々や着替えが終われたリュックと小ぶりなキャリーケースが並んでいる。リュックの中には車の中で食べるようにと、朝大急ぎでばあばの作ってくれたクッキーが入っている。
昨日の嵐が嘘だったかのように、空はカラッと晴れ渡り、深い青に染まっていた。「嵐の後は、いつだっていい天気になるのよ」ばあばが僕にウインクして教えてくれた、
ばあばも、そして昨日の出来事も全部夢だったのではないかというように、すっかり元気になっていた。昨日のことは聞いたけど覚えていないみたいだった。でも、とぼけているのか本当に覚えていないのか、僕にはわからなかった。やっぱりばあばは、僕の魔女ばあばだ。
僕は自分の家に帰る前に、もう一度あの、秘密の庭をみておこうと思ったけれど、不思議なことに、あの庭はなくなっていた。どうにも信じられなくて、家の周りを何周もして探したんだけと、ついにあの場所を見つけることができなかった。なんだか狐につままれたような気分になった。ばあばは僕がいくら問いただしても、ニコニコしているだけで何も答えてはくれなかった。昨日の晩みた絵も、いつの間にか忽然となくなっていた。まるでそんな場所、最初から存在しなかったみたいに。
それでも僕は、驚きはしたけど、ガッカリはしていなかった。だって僕の心の中に、いつだってそれはあるからだ。僕はいつだって好きなときにそこをまた訪れることができる。そこは僕だけの場所で、僕の世界だからだ。

こうしてこの僕の不思議な経験と、秘密の庭についての物語は終わる。そしてこの絵は僕の幼少期の記憶を頼りに大人になってキャンパスに表現したものだ。細かいところはもう忘れてしまったけれど、あの庭のもつ不思議さや、温かみは表現できていると思う。
そして僕はこの絵をみるたびにいつだって思い出す。世界の秘密と、そしてとってもおちゃめで優しい魔女を。

モネ 睡蓮 その3 僕の秘密と世界の秘密

 

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こうして僕と魔女ばあばの夏休みが始まった。僕らは朝になると一緒にバルコニーで朝食を食べた。朝食はその日のお手伝いさんのお任せで、パンだったりスコーンだったり、オムレツだったり、目玉焼きだったり、パンケーキだったり、フレンチトーストだったりした。そこに添えられるのはフレッシュで美味しいジャムとミルク。そして食後の甘いカフェオレ。なんだか外国の映画みたいだな、と思う。
魔女ばあばのおうちはすごいお金持ちだ。詳しいことはよくわからないけど、もう亡くなってしまった魔女ばあばの旦那さん、つまり僕のじいじのおうちが貿易商か何かの歴史ある古い家系で、じいじがそれを更に大きくさせたらしい。でも僕はその人に会ったことがない。いや、会ったことはあるんだろうけど、僕がやっぱりとっても小さい時に、じいじは癌で亡くなってしまったから、僕の記憶には残っていないのだ。いつも写真で見るだけ。
まだ赤ちゃんで、揃いタオルに包まれた僕を、少し恥ずかしそうな、それでも嬉しそうに抱いてくれている写真や、買ってもらった新しい三輪車を乗り回しているのを微笑ましそうに見つめている写真なんかを何度か見た事がある。少し怖そうだけど(多分眉間にいつもシワができているせいだと思うけど)、穏やかで、優しそうな人だな、と思った。でも、この人があなたのおじいさんよ、と言われてもあんまりピンと来なくて、なんだか不思議な感じだ。
「あなたは覚えていないかもしれないけど、じいじはね、あなたのこと、ものすごーく大好きだったのよ。とっても可愛がってくれたのよ」
それでも僕は、ばあばがじいじのことを話すのを聞くのが好きだ。じいじの話をするときのばあばは、いつもより一層、穏やかで優しい声を出すし、まるで自分だけの宝物や、秘密を、こっそりと僕にだけ教えてくれているみたな感じがする。声が少し弾んで、頬の一番出っ張ったところが、薔薇みたいにパッと色ずく。
「ばあばは、遠くに行っちゃっても、じいじのこと、ずーっと好きなんだね」
僕が食後のカフェラテを飲みながらそう尋ねると、ばあばは嬉しそうに、一層弾んだ声で答えた。
「そりゃ、そうよ。だってばあばは魔女で、じいじは私の魔法使いなんですもの。あの人はね、私の人生に光と、そして彩を与えてくれたのよ。」
そして一層、声を低くして、僕の耳元でそっと囁いた。それは僕の知らなかった、もう一つの、世界の秘密だった。
「この世で一番の魔法はね、愛なのよ」
僕はこのばあばの笑顔が、世界で一番好きだ。

朝食の後、僕たちは乗馬をしたり、何をするでもなく庭を散歩したり、(それでも、ばあばはあんまり沢山は歩けないから休憩時間の方が歩いている時間より、ずっと多かった気がする)時には木のしたの小さな木陰でお弁当を食べることもあった。ばあばは、僕の知らない花の名前や花言葉、虫や鳥の名前を沢山教えてくれた。
「この真っ赤なお花はね、「恋煩い草」っていうのよ。ある女の子がね、好きな男の子のことを考えて考えて考えすぎちゃって、ある日突然、真っ赤な花に変わってしまったの!顔を真っ赤に赤らめたみたいな色をしてるでしょう?それにこの花の花弁が、可愛らしい女の子のスカートみたいね」
「この黒い実はね、いい?絶対に食べちゃダメよ。これは「爆弾ボンバ」っていう実でね、食べてしまうと、体の中で爆発して、お腹を壊してしまいますからね。でも、もし、ソラをいじめるわるーい奴らがいたら、こっそりばあばに教えて?ばあばがその子たちの給食のスープに、こっそりこれを入れてやるからね」
「この真っ白い、空みたいな小鳥はね、「雨知らせ鳥」と言ってね、雨が降りそうになると、いつも三回続けて泣くのよ。さあ、耳をすまして・・・今日は、ずーっとお天気ね」
「こっちのに咲いている黄色い葉っぱや草たちはね、「魔法の絨毯」よ。ずーっと昔、じいじがね、この絨毯に私を乗せて、一緒にお空を飛んだのよ」
「でも、魔法使いはほうきに乗って空を飛ぶんじゃないの?」
「ばあばとじいじはね、とてもハイカラな、オシャレさんな魔法使いと魔女だったのよ」
ばあばは僕にウインクした。

いつものように一通り散歩をした後、二人で、またテラスで昼ごはんを食べた。そして何をするでもなく、パラソルの下から強烈な生命の発する音と、色と、匂いを堪能していた。
「ソラ、あなたそういえば絵が好きだったじゃない?覚えてない?ちっちゃい時なんて何色もあるクレヨンを一日中握り締めて絵を書いていたじゃない。覚えてない?ばあばね、今でもソラがくれた絵をちゃんととってあるのよ」
ばあばの声に、不自然なところや、強制的なところはなかった。それでも、僕はその言葉を聞いた瞬間、昼間に食べたミートパイが胃の底から迫り上がってくるのを感じた。
「もう、描かないよ」
なんとか唾を飲み込み、やり過ごす。なんとなくめまいがしてきた。
「あら、どうして」
ばあばが本当に不思議そうに聞いた。お母さんから聞いていないのだろうか。僕がなぜ、夏休み中ここにいるのかということや、僕の絵のことや、学校のこと。
「そ、そんな、女っぽいこと、もうやめたんだ。だって変だもん」
自分に一語一句言い聞かせるように吐き出した。汗が吹き出る。テーブルの上にあったレモネードをひったくるように掴むと、ストローからではなく直接口をつけてそれを啜った。透明なガラスの玉が、コップの中でカラカラと音を立てる。
僕の世界が回り始めた。音が小さくなったり、大きくなったりした。汗が止まらなくなり、視界が揺れた。暑さも寒さも感じられなくなり、口の中が乾いた。心臓がどくどくと僕を責めるみたいに、重く鼓動した。胃の中の食べ物が迫り上がってくる。何かにすがりたかった。一つの何かにしがみついて、このグルグルと回る世界から、僕が振り落とされないようにしたかった。
その時何かが僕の背に触れた。そこから何かが伝わってくる。目の前にはばあばの顔があった。視界がぼやける。僕は泣いていた。両目から、ボロボロと、雨が降るみたいに涙が落ちてきた。すると何も聞こえなくなった僕の耳に、唯一、暗闇に挿す光みたいに聞こえていきた。
「ねえ、魔女ばあばに話してくれる?」
僕の大好きなばあばの声だった。

ばあばのいうとおり、僕は絵を描くのが大好きだった。目に映る輝かしい光景を、真っ白な紙やキャンパスに表現するのがとても好きだった。まるで僕が、僕だけの新しい世界を作り上げているみたいだった。想像力を生かし、世界を見、そこに息づく人や物を自分の世界にトレースし、そこで自分の好きなように表現できるのが何より嬉しかった。
最初のうちはみんな何も言わなかったと思う。例えば幼稚園、小学校1、2年生の時。それでもだんだん学年が上がるに連れて、僕が他の男の子たちと同じように、サッカーやバスケットボールに全く興味を示さないで、いつも休み時間になると校庭の角のほうで一人で絵を描いている姿はだんだん周りから浮いて見えた。中にはうまい、上手だと褒めてくれたクラスの女子もいたけれど、4年生に上がる頃には誰も僕に話しかけなくなっていた。
そしてある日、特別がたいの大きい、サッカークラブにかよっているリーダータイプの男の子が、僕に目をつけた。
特にその子に目をつけられることをしたとか、その子が特別僕に恨みを持っていたとかではないと思う。こういうことは、何か特別な理由だとか、大きな出来事によって起こるわけではない。ただ、何かの拍子に「こいつ、男のくせにいつも女みたいに絵ばっかり描いてて、気持ちわる」とクラスの前で言い放った。
それがいじめの引き金になった。中心的にいじめていたのはサッカークラブの連中だけど、他のみんなも、そのグループからの仕返しを恐れて、誰も何もしてくれなかった。僕も、自営業を営む両親の負担になってはいけないと、いじめがバレないように何かと嘘をついてはぐらかした。
それでもある日、給食の時間に食べ物をもどしてしまった。それは僕や周りの生徒の鼻をつん、とつき、ゲロの一部が女の子のスカートに飛んでしまったことでその子が泣いてしまった。リーダー格の男の子はこれみよがしに、謝れ、と僕の頭をその吐瀉物のなかに突っ込んだ。
そこで、糸が、切れたのだ。
担任が止めに入るのも効かずに僕は死に物狂いで彼に飛びかかった。彼はいつものように、やられたらやられっぱなしの僕が、まさか掴みかかってくるとは思わなかったのか、そのまま僕の勢いを支え切れずに、スッテーンと床に倒れ込んだ。そのまま僕は馬乗りになり、支離滅裂なことを喚き散らしながらその子の顔を何度も何度も殴った。他のクラスからも男の先生が女子と僕の叫び声を聞いて飛んできて、三人がかりで僕を彼から引き剥がしたらしい。
らしいというのは、その時のことを僕は全く覚えていないのだ。後から両親が学校に呼び出され、そこで担任の先生から説明を受けた。リーダー格の男の子は歯を何本か折ったようだった。僕がその時唯一、しかし強烈に覚えていたのは、明確な殺意と、拳の痛みだけだった。
詳しいことはまた後日ということになり、僕らは家に帰った。僕はそこで隠していたいじめの事実を両親に打ち明けた。もちろん両親は学校と相手の子に激怒し、僕のことを慰めたり、励ましたりしてくれた。お母さんは涙を流し、お父さんはそれをなんとかこられていた。
それでも僕は、そっとしておいて欲しかった。誰にも触れられず、見られず、聞かれず、僕は世間から隠されていたかった。もううんざりだった。彼を殺すつもりの殺意が湧き上がったことに、自分でも慄き、恐怖した。
それから僕は、学校に行けてはいない。

ばあばは僕が落ち着くまでずっと背中を摩ってくれた。だんだん世界と僕を繋ぐ感覚が戻ってきた。最初に色彩が戻り、音が聞こえ、風が頬を撫でる感触があった。そして目の前には、大好きなばあばの顔があった。
「ばあば、僕・・・」
ばあばは僕の口を、そっと手で遮る。
「ソラ、ソラに見せたいものがあるのよ、おいで」
ばあばはそれだけ言うと振り向かすに家の裏に姿を消した。僕はおぼつかない足取りでばあばの後を追った。
その道はまるで、世界から隠されるみたいに大きな建物の裏側に続いていた。散歩でも一度も行ったことのない場所だった。ばあばの足取りはいつもゆっくりだから、すぐに追い付いた。
「ねえ、ばあば、どこに行くの?」
「とっても素敵なところよ。ばあばがソラに、最後の、とっておきの秘密を教えてあげるわね」
ばあばは僕の手を握った。 僕の心に、ぽっとひだまりができたみたいだった。ばあばのあったかくてつるつるの手を見る。やっぱりばあばは、僕の魔女ばあばだ。
「ここよ」
ばあばの声に、はっと顔を上げる。僕らは橋の上に立っていた。
「うわあ・・・」
思わずため息が出た。その景色は正面の僕らが今まで見てきた庭の景色とは違っていた。庭の景色は夏の光とめぐみを一身に受けた、強烈な活発さ溢れるものだった。しかしここには、そうした激しいインパクトはない。そこにはただただ、優しさと静寂があった。
橋の下には池が広がり、長く生い茂った木々の間から覗く優しい木漏れ日が、池に降り注いでいた。池の上にはには、睡蓮がぴったりと、まるで寄り添うように一塊りになり、光を教授している。所々に、白や薄桃色の花が赤ちゃんの手のひらみたいにちょこん、と空に向かって開いていた。
どこまでもどこまでも暖かな光が、優しく僕らを包み込む。ここになら居てもいいよ、とその景色は僕を受け入れてくれているみたいだった。
頬に涙が伝う。悲しみ、憎しみ、怒り、虚無感、希望、嬉しさ、安心、喜び。そしてその他の、言葉にならない無数の感情たち。
「ソラ。実はね、ソラの生まれるずーっとずーっと前に、この景色を、絵に描いた人がいるのよ」
ばあばは目の前の風景から目を離さず、僕に語りかけた。
「その人はね、絵描きさんだった。その人、男か女か、わかる?」
僕は麻痺してしまった頭を必死に回転させて考えた。なんとなく、こんなに柔らかくて、穏やかで、優しい、世界の幸せを集めたみたいな絵を描く人は女の人じゃないかな。そう、例えば、ばあばみたいな人かな、と思い
「女の人?」
と、ばあばを見上げながら答えた。ばあばはゆっくりと首を振った。
「いいえ、男の人だったのよ。しかもその人はとっても有名で、彼の死んでしまった今でも、たくさんの人がその人の絵を欲しがっているのよ」
僕は素直に驚いた。男の人と、この目の前の景色がすんなりとイメージとして結びつかなかったからだ。男の人なのに、こんなに繊細な、美しい景色を絵にするのか。
「ばあばがもっとずっと若かった時もね、いろんな人が、いろんなことを言ったわ。女はこれをしろ、女なんだからこれはするな。女はこんなことできないって。でもね、それは間違っていると教えてくれたのが、あなたのじいじだったのよ」
ばあばは僕の前に膝をついて、僕の目から流れる涙を、ハンカチで拭ってくれた。ちょうど睡蓮の花のように、柔らかい白だった。
「じいじはね、男か女かではなく、私自身と向き合ってくれたのよ。だから私の前で決して、男だから、とか女だから、とは言わない人だったわ。今よりももっと男と女で偏見や差別のある時代だったけど、そんな時代に生きた人でも、ちゃんと物事の本質を、真っ直ぐに見れる人だったの」
だからね、ソラ、と魔女ばあばは言った。僕の目を真っ直ぐ見て。
「あなたも、「自分らしく」生きなさい」

モネ 睡蓮 その2 たくさんの色と自然の力

次の日の朝、僕は閉め忘れていたカーテンからの刺すような朝日に目を瞬かせる。スプリングの絶妙な、寝心のいい大きなベットで体を起こした。

一瞬、あの見慣れた、傷だらけの自分の部屋ではないことに混乱したけど、すぐに僕は今魔女ばあばの家にいることを思い出して、胸を弾ませる。

パジャマのまま急いで階段を下って居間にいくと、ばあばはもう起きていた。

「あら、ソラおはよう」

「おはよう、ばあば」

僕らはそのまま外に出て、テラスで朝食をとった。昨日は暗くて見えなかったけど、入り口の近くにバルコニーがあって、白いまあるいテーブルと椅子が朝日の中で輝いていた。

朝のまだ爽やかさを残す風を受けながら、僕らはトーストをかじり、オレンジジュースを飲んだ。僕は目の前に広がる景色に心を打たれていた。

一面に果てしなく広がる緑の草原。遠くに生茂る山々。朝日の匂いを運ぶ風。それにゆれる葉の音色。虫たちの微かな羽音。それはまるで、壮大な絵画と音楽のように、僕には感じられた。

「ばあばの庭、たくさん色があって、すごく綺麗」

景色の迫力と色使いに圧倒された僕は、それでもそんな、平凡な感想でしか、その壮大さと素晴らしさ、そしてそれらが移ろう儚さを現できないのがもどかしかった。

「そうねえ、このお庭は、ばあばのもう一人の子供みたいなものだからねえ、手をかけているのよ。私はもう、足が悪くなってこんなにおばあちゃんだから、庭師の高山さんがやってくれているのだけど」

それからまた、二人はしばらく黙ってそのみずみずしい景色を堪能した。

少しして、ばあばが僕に言った。

「ねえ、ソラ。あそこの草は、ソラには何色に見える?」

ばあばは昨日とは違う宝石も何もついてない手を前方に伸ばし、僕らの少し前にある草原の一画を指差した。何もつけていないばあばの指先は昨日よりずっと細く見えた。

「あそこ?あそこは緑色じゃないかな?」

いまいち質問の意図が分からなくて、僕は首を少し傾げながら言った。

「そう、じゃ、そっちはどう?」

今度はもう少し遠くの、斜め左側の、ちょうど太陽の日差しを真っ直ぐに受けているあたりの草を指差して質問した。

「あそこ?うーん、あそこも緑だと思うな、だって、草しかないし」

「それじゃあ、あっちはどうかしら」

今度はまたさらに遠い、一本の古い木の下のあたりの草を指差した。自身の大きな葉の重さによって押し潰されてしまったみたいに枝の垂れた木の下の草だ。

「えーうーん。よく分からないな、あそこも緑?」

僕は本当に訳が分からなくなって、オレンジジュースを飲むばあばを見た。ばあばは時々謎謎を言うけれど、そこには何か意図があるんだ。僕に、何かを気づかせたいんだ。

「じゃあ、今、ばあばが指差したこの3箇所の緑は、全部同じ緑色かしら?」

僕はもう一度、注意深くこの三つの箇所を確かめる。そして、気づく。

「あ!ううん、違うよ。全部違う緑色だ。」

その途端、僕は四方八方を見渡す。そして、気づく。

僕の目の前には今まで見たことのないくらいたくさんの種類の「緑色」が広がっていた。クレヨンの緑じゃ、決して足りないくらい、様々な「緑色」だ。。

深い緑、薄い緑、透き通った緑、淀んだ緑、キラキラの緑、優しい緑、力強い緑、儚い緑、分厚い緑、繊細な緑・・・その緑たちをベースに、季節の花々が激しく、誇らしげに自らの色を添えていた。

これが「自然の色」なのだ。世の中には名前のつかない色たちがこんなにあるなんて知らなかった。これが、自然の力だ。人の考えや、感性を凌駕した、自然の、ありのままの色。僕らはそれに、何かを名付ける必要なんてないんだ。

「人間はね、時々とても傲慢になるのよ。そして、たくさんある個性的な物を一括りにしてしまうことがあるの。クレヨンの色とかそうね。例えば今、ソラが気づいたように、緑、と言っても一つ一つ違うでしょ?みんなそれぞれの色を持っているのに、それがぜーんぶ一緒になって「緑」ってなっちゃうのよ。それってなんだか、悲しいことよね。そういていくうちに人間は「緑」は「緑」と覚えてしまうのよ。そこに他の色があることに気づけなくなってしまうの。でもソラは違うわよね、例えみんなから「緑」は「緑」だ、と言われても、それは違う、って考えることが、もう、できるわよね。」

世界の秘密の一つに気づいた僕に、ばあばが優しいこえで言った。僕は驚いて、声も出ず、ただ、黙って庭の草木を見つめていた。

 

僕らは朝食の後、一緒にばあばの馬たちを見に行った。馬小屋に近くにつれて動物特有のあのつんとした匂いが鼻をついた。

「ばあば、お馬さんって臭いんだね」

するとばあばは心底おかしそうにカラカラとわらった。その笑い方が、夏の溌剌とした気候と緑の庭と、抜けるような蒼い空に響いて僕はとっても好きだった。

「あらあら、ソラちゃん。私たち人間だって、臭いわよ」

「えーそんなことないよ。僕は毎日ちゃんとお風呂にだって入るし、ばあばはいつも、甘い香りとか、爽やかな香りとかがいっぱいするもの」

僕は確かめるみたいにばあばの洋服に鼻先を埋める。今日は、夏の通り雨の最初の一粒みたいに、爽やかでみずみずしい匂いがした。

「そうね、もちろん私たちは毎日お風呂に入るし、大人になれば、私みたいに香水をつける人だっているわよね。でもね、それでは私たちの本来の匂いは消えないのよ」

「えー」

僕は訝しげに、自分の腕の匂いをかいでみる。それでも何も臭わない。

そうこうしている間に僕らは馬屋の前についた。さっきの匂いが一層強くなる。思わず指で鼻を摘む。

「こらこら、そうやって片腕が塞がってたら、すぐ落馬しちゃいまっせ、坊ちゃん」

そう言って現れたのは、黒いキャップをかぶって、tシャツをきて長靴を履いた、日によく焼けた屈強な男の人だった。

思わぬタフガイの登場に、僕は少したじろぐ。こういう種類の人間は、苦手なのだ。なんとなく自信があって、粗野で腕っぷしの立つ男が男として優れていると思っているタイプの人に思た。それに、否応なしに、あの子を思い出す。

でも、ふと、朝、バルコニーでのばあばのやりとりを思い出した。もうクレヨンの色分けは、やめようと思った。

「こんにちは。初めまして。ソラです」

勇気を振り絞って、僕はその人に向かって一歩踏み出し、ペコリとお辞儀をした。

「ああ、覚えてますよ。ソラ坊ちゃんですね。前に見たときはまだ、よちよち歩きの赤ちゃんだったのに、もうすっかり大きくなられて」

男の人はその肌の色と対照的な、健全で真っ白な歯を見せて、真夏の太陽みたいににっこりと笑った。その笑みにほっとしたのも束の間だった。

「今、何歳になられたんです?」

「今、10才です。」

なんとなく、嫌な予感がした。

「ほーこりゃ大きくなる訳だ。っていうと今・・・小学校4年生か。どうです?学校の方は楽しいですか?」

ジェットコースターに乗ったときみたいに、心臓と胃がギュッとなった。息が苦しくなり、じっとりと、嫌な汗が耳の後ろを伝う。どう答えとうかと考えているうちに、ばあばがいつもの、あの、包み込むみたいな声で言った。

「タムラさん、今日はソラに乗馬を教えてあげたいんです。よろしいですか?」

「はい、もちろんです。ささ、坊ちゃん、どうぞ」

タムラさんと呼ばれたその人は、何も気にする風もなく、僕を馬具がおいてある、少し離れた古い小屋へ案内した。

 

馬に乗ったのは、もちろん僕の短い生涯でこれが初めてだった。

初めは怖がって、鞍にすら跨がるのを渋っていた僕を、珍しくばあばが嗜めたり、応援したり、諭したりして、ついに乗ることになってしまった。

でも初めて馬にまたがったときの感動を、僕はこの先、ずっと覚えていると思う。

いつも猫背だった僕の背筋がピンとのび、肺の奥から大きく息を吸い込んだ。いつしか馬特有のあの匂いも全く気にならなくなっていた。これが、馬の匂いなのだ。僕たちがお風呂に入っても、その人の匂いが消えないのと同じ等に、僕がお母さんのベットやパジャマの匂いに安心するように、馬にも馬の匂いがあるのだ。それは臭いとかいい匂いとかではなく、彼本来の匂いで、それが生きているということで、輝かしい生命の印なのだ。そう思うと、その馬の匂いも、力強い魅力があった。

「お。初めてにしては姿勢がいいですよ、坊ちゃん」

僕の馬の口輪を持ってくれているタムラさんが下から声をかけた。初めてのことで恥ずかしかったり誇らしかったりで、くすぐったい気持ちになった。いよいよ熱く照りつける日差しに負けないように、ヘルメット兼日差しよけをもう一度いじると、いよいよ馬に、前進の指示を出した。

グラッと大きく視界が揺れる。思わず全身に力を込めると、それを見越していたタムラさんが声をかけた。

「あんまり力まないで、リラックスして。馬はね騎手の緊張を敏感に察知しやすいんだ。パニックになったら逆に振り落とされるよ」

そんな、ボロボロの今にも落ちそうな桟橋の上でリラックスしろと言われているような、無理難題のように聞こえたが、僕はなんとか大きく一回深呼吸した。大丈夫。駆けたりせず、慎重に渡れば、きっと桟橋だって落ちない。

なんだか、自分の足を動かしてないのに、前に進むなんて変な気分だ。それも無機質で均一な車のエンジンが自分を運んでいるのではない。馬によって、生き物によって、自分が彼と一緒に歩いているのだという感触がある。それがとても面白かった。僕とこの馬との間に、何かが繋がっているのだ。

もう日がだいぶ高くなって、体をじりじりと焼き付けた。僕の真っ白な腕が、今は火照って真っ赤になっている。馬の体調を考えて、こまめに休憩は取ったが、それでも僕は、乗馬をやめなかった。

彼らに乗るのは、まるで、言葉のいらない会話を楽しんでいるみたいで、とても心地よかったからだ。傲慢かもしれないけれど、僕は彼らの息遣いや、筋肉の動き、耳の傾けかたから何かを読み取れる気になっていた。なんと言っているかなんてもちろん分からなかったけれど、それは歌詞のわからない外国の音楽みたいに、僕をとても穏やかな気持ちにさせてくれた。もっともっと、彼らと時間を過ごしたい。

「よし、じゃあだいぶ慣れてきたから、いよいよ次は坊ちゃんが、この馬を動かしてください」

そういうとタムラさんは、そっと、手綱を掴んでいる自身の腕を離した。

 

 

 

 

モネ 睡蓮 その1 魔女ばあばの家

 

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僕が初めて魔女ばあばの家にきたのは、8月の頭、夏休みが始まってすぐのことだった。正確には僕がずっとずっと小さい頃何度かきたらしいけど、僕は小さすぎて覚えていないので、これが僕の初めてのばあばの家となる。

魔女ばあばは、僕たち家族の住んでいるところからとってもとっても遠いところに住んでいるから、僕たちはそこに着くまでに何時間も車に揺られなくてはならなくて、僕はもうお尻が痛くって痛くってたまらなくなっていた。それに効きすぎた車内のクーラーと車酔いで、やっとのことでお屋敷の門をくぐったときには僕はもうぐったりしていた。

「ソラ、おばあちゃんの家、やっと着いたよ」

前の席からお母さんの、やっぱり少し疲れたような、それでもなんだか晴れがましい、そしてどこかほっとしたような声がした。

「疲れたろ?もう夕方になっちゃったからなあ、夕飯、ソラの好物だといいな」

お父さんも長時間の運転でうんざりしたような、でも安心しきったような声を出した。

二人とも、なんとなく僕をそっと扱っているのがわかる。壊れないように、崩れなように。そんな気遣いが、逆に僕の居心地を悪くする。僕は肯定とも否定とも取れない曖昧な返事をし、窓の外を見た。外にはばあばの大好きだという沢山の、色とりどりの花や、木々が僕らを歓迎するように、金色に染まっている。

門を入ってから、さらに5分ほど車を進める。ばあばのおうちが広いとは聞いていたけど、想像よりもずっとずっと広大だった。そこらじゅうに緑が溢れていて、僕らののる車が走るこの石畳の道を避けるように、しかし、めいめいがのびのびと太陽の恵みを一身に受けて育っていた。僕とは正反対だ。

ちょうどそのとき車が止まった、ようやく正面玄関まで着いたのだ。

ドアを開ける。夕方なのにまだ少し蒸し暑い風がむわっと車内に入ってくる。クーラーによってキンキンに冷やされた僕の肌を優しく包んだ。草の匂いがする。

「よく来たね」

まるでひだまりにみたいに優しい声が降ってきた。上を見上げるとばあばが窓から僕らを見下ろしている。

「ばあば!」

僕は途端に嬉しくなり、そしてやっぱり心の中でほっとため息をついた。それでもこの安心感というのは僕のお父さんやお母さんが抱くそれとは違ったものだ。

「お母さん、久しぶり」

「お世話になります」

僕のお母さんとお父さんもばあばに向かって挨拶しながら、トランクから荷物を取り出す。

僕は数歩、建物に近寄って、それをしげしげと眺めた。家と言いがたいその建物は、ただの家と言うにはとても大きすぎて、そして荘厳すぎるた。いつか物語で見た、古城を思わせる立派な石造りで、大きな窓が沢山ある。ルツが長い年月をかけてまるで繭みたいに、下半分の建物を覆っている。それでもきちんと手入れがされているいるので、みすぼらしい印象はなく、ツルから伸びる葉は青々と繁っていた。まるでこの建物が、自然の作り出す綺麗な洋服を身に纏って、夕日がガラス窓に反射して、キラキラひかるアクセサリーをつけているいるみたいだった。

やっぱりこんな素敵な屋敷に住む彼女は、僕の魔女ばあばだ。

少ししてばあばが大きくて重そうな扉から現れた。ばあばは足が悪く、もう早く歩けないから何をするにも時間がかかるのだ。だからお手伝いさんを何人か雇っているらしい。今、この大きい扉を開けてくれた人は、初老のばあばと同じくらいかもう少し若そうな、こんなに暑い夏の日でもしっかりと紺色のスーツを着こなす、優しそうな男の人だった。もっとも、僕は本当のばあばの歳を知らない。以前、まだばあばの足が悪くなる前に、親戚の集まるお正月に僕らの街へきたときに不思議に思って聞いたことがあるんだけど、「魔女はね、不老不死、死なないのよ」とこっそり耳打ちされて驚いたことを覚えている。

「ソラ、こんなに大きくなって!」

ばあばはゆっくり手前の小さな階段を降りて僕の前までくると、ちょっとしゃがんで、シワシワの顔をもっとシワシワにして僕をふわりと抱きしめた。宝石を散りばめた細い手が僕の背中を撫でる。僕も自分の、8月なのに少しも日に焼けていない真っ白な腕を、ばあばの触り心地のとってもいいリネンの生地の背中に回す。

「ばあば、久しぶり」

自然と笑みが溢れる。なんだか、よくわからないけど、このとき僕は久しぶりに、本当に久しぶりに、自然に息ができる気がした。

 

その日の夕食はカレーだった。僕の大好物だ。とても長くて大きいテーブルに、僕と、ばあばと、お父さんとお母さんが、中央に向かい合う形で座る。雪みたいに真っ白なテーブルクロスと茶色いとろっとしたカレーのルーの色が対照的で、こぼしてもいいように、のテーブルクロスなのに、汚さないように慎重になってしまう。

僕らの正面には庭で摘まれたであろう色彩豊かな夏らしい花が、シンプルなガラスの花瓶の中に、品よく収まっていた。

「ソラの大好物で、よかったわね」

隣に座るお母さんが僕に微笑みかけた。僕は黙って、笑顔でうなずく。僕の笑顔が僕のお母さんを安心させることを僕は知っている。だから僕は、嬉しいことがあると、いつもより少し大袈裟に喜ぶようにしている。

僕は大きなお皿に、きっとお母さんより多いくらいのカレーをたっぷりとよそってもらう。スパイスのピリリとした香りが鼻と食欲をくすぐる。

お母さんが、夜、仕事に行くときに出す、質よりも時間を優先したレトルトカレーとは違う。きちんとスパイスからすり潰した、本物のカレーだ。そこに、多分ばあばの庭で取れた色鮮やかで新鮮な野菜や、大きなお肉がゴロゴロと入っている。

「美味しい!」

一口食べると舌の上で、たくさんの食材や風味がダンスを踊る。スプーンが止まらなくなる。

そしてちょうどその激しいステップに舌が痺れてきたところに、羊の真っ白でフワフワな毛を連想させる、口当たりのいいクリーミーな牛乳を流し込む。ほっとしたような満足感が口の中いっぱいに広がる。

「本当だ、うまいなあ」

お父さんも僕より少し大きい山のカレーをパクパクと美味しそうに口に入れる。お父さんはいつもご飯を食べるのが早い。僕も負けずに競争したことがあったけど、いつも後でお腹が痛くなってしまう。

「気に入ってくれてよかったわ、ばあば、ソラがくるって言うから張り切って自分で作ってみたのよ」

僕の右隣からばあばが僕に向かって笑いかける。つられて僕まで嬉しくなる。ばあばの周りの空気はなんだかいつも朗らかで優しい気がする。僕は嬉しくなって、先を続ける。

「うん、本当に美味しいよ!おかわり!僕、こんなに沢山ご飯食べたの久々!」

もう最後の方にはしまった、と思ったけど遅かった。すばやくお母さんをみる。その顔が少し曇ったのを、僕は見逃さなかった。僕は取り繕うように、副菜のサラダをつついた。一度口から出た言葉は引っ込まない。最近学んだばかりだと思ったのに、まだ時々その事実を忘れることがある。

おばあちゃんはそんなお母さんに気づいている。それでも相変わらずの穏やかな調子で嬉しそうに笑った。

「お母さん、それじゃあ、夏休みの間、ソラのことよろしくお願いします」

僕のお母さんはそう言って少し、ばあばに向かって頭を下げると、しゃがんで、僕を見上げた。

「いい、ソラ。おばあちゃんの言うことを聞いて・・・楽しい夏休みを過ごすのよ。何にも心配いらないわ」

僕は何も言わず、うなずくだけにした。本当は「いい子にして」って言いたかったんだろうな、と心の中で思った。もう最近は、以前は口癖のように言っていたそれを、お父さんとお母さんは、ピタリと使わなくなった。けど、それがいいことなのか悪いことなのか、僕にはわからなかった。

「僕からも、よろしくお願いします。」

パパは、ママよりもっと深く、丁寧に頭を下げた。

「ハイハイ、大丈夫ですよ。サトコ、カズユキさんも心配しないで、私がしっかり面倒みますからね」

ばあばは二人の少し心配そうな大人二人を交互に見ながら、まるで小さい子を安心させるように言った。

「じゃあね、ソラ、また、迎えにくるからね」

「お婆ちゃんと仲良くな」

お父さんとお母さんはそう言って一回ずつ僕のあたまを優しく撫でた。それでも、ばあばが僕を玄関で抱きしめてくれたときにような、自然で、安心感をもたらしてくれる動きではなかった。僕は気づかないふりをして、微笑む。

僕はあてがわれた自分の部屋の中から、もう真っ暗になった道を行く車のヘッドライトが、森の中に吸い込まれていくまで見つめていた。

 

つづく。